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2021年11月19日金曜日

高校版 修学旅行に行ってきた


二泊三日の修学旅行を終えた。よかった。誰も損をしない行事になった。

ちょっと昔、修学旅行委員長に推した生徒がいた。引っ込み思案、でも、力がある。彼はやりたそうだったので、僕が推した。八面六臂、気配りや決断力があった。その彼をレクレーション大会のあと、みんなでサプライズで感謝の言葉を伝えようと企画した。みんなが彼の姿を見てそうしたいと。レク大会は大成功で、みんなほっこりした。サプライズも大成功。彼は大泣き。僕も泣けた。この仕事の、中学校の先生の仕事の良さを実感した。

就寝の点呼に回ったとき、部屋の子が「あいつずっと泣いているんです」と教えてくれた。泣けた。僕の教師としての修学旅行デビュー戦。最高の時間だった。(次の朝、見事に杉本は寝坊して学年主任の先生に怒られるのですが…笑)

今回、高校教師として修学旅行に引率した。僕は担任もないし、写真を撮ったり、主任、副主任、担任の先生方をお手伝いする役目。要領がわからないから、周りを見渡して教えてもらいながら。やっぱり、高校生の修学旅行は違った。

「苦労話合戦」の中学校の修学旅行の引率とは違って、高校生の良さを堪能できた。授業に行っていないクラスのバスに乗り、ついでに誕生日だった自分を祝福してくれた。みんなが楽しめた行事。写真の整理をしていても、良い表情だった。

ここで小休止。思考の整理をしたい。

時間を経るごとに「中学校より」「中学では」と比較している自分がいる。政治家やプロアスリートでもそうだけど、離れると途端に饒舌になる。利害がなくなるからか、割と気軽に批判めいたことも言える。実態を赤裸々に。いとも簡単にそんなことができる。当事者の苦しみを知っているくせに、それを批判、非難めいた論調で声高々に主張し、これみよがしに持論を展開する。他でそんな人がいれば辟易するのに、自分もそんなことをしている。

当事者が語れないことを笑うな。その場で咲け。

少しく経験がある者や聞きかじった人ほど言いたがる。僕も僕で、自分の経験なんか何の積み上げもないのにわかったことを言いたがる。OSの見直しを大いに感じた。

「どうせつまらないだろう」と思った最終日の水族館がすごくよかった。どこに行っても生徒は楽しめる。去年コロナで青春をめちゃくちゃにされたクラスの子たちが、修学旅行で見せたあの姿。評論家でなくプレーヤーでいること。

良い時間でした。

2021年11月9日火曜日

オープンハイスクール


 今日から2日間、オープンハイスクール。去年まで送り出す、お世話になるほうだったのに、なんか不思議な感覚。感慨もある。

おかげさまでかなりたくさんの中学生と関係者の方が来られているようで、僕も明日案内係と授業を担当する。

放課後は部活動見学。寒い中、遠いところから来てくれていたり、最後までいてくれたりと、充実したものになった。来てくれた生徒さんたちが今日のウチの部の様子を見て、ウチの学校に行きたいなと思ってくれる一因になったらうれしい。

今日をきっかけに「行きたい」と思う人もいれば「ガッカリや」という人もいるはず。これだけはご縁の話になる。縁のある方と良い時間を過ごしたい。

今日3年生の選択の授業でフィナンシェを作った。桜の時期には造形を。

高校で勤めるのは本当に楽しいです。

2021年11月5日金曜日

最良の生徒指導は「親切」


漢文の授業で書き下し文をする時間になった。屈原の「漁夫辞」。文学史と作者の紹介、5月5日との関連性を話して、後半はこういう活動の時間。

何もしない生徒がいる。

みなさんならどうしますか。

よくあるのは教卓(教壇)から「おい、手が止まってるぞ」「なにサボってるねん」とやりこめるやり方。これをご覧になっている方はきっとそういう接し方はしないと思うけど、いまだにそういう声かけ(と言っておこう)があることに驚く。

生徒の気になる動きがあれば、近くに言って声をかける。これでおおかた変な受け止められ方にならない。

「なんでやろ。あの子もこの子もやってない」と思ったので、しばらく観察。わかった。

もし、ノートがなくなって今作業がストップしているなら、ここに余っているプリントあるから、裏に書いてノートに貼るといいよ。必要な人は取りにおいで。

懸案の生徒たちがこぞってきた。単にノートがなくなっていただけだった。

「それならそうと、自分から言いに来たらいいのに」というのは確かにあるけど、そういうのはもう横において、生徒ができる環境を提供できるならそれでいい。不自由して工夫するのもひとつ。でも、それを見取って声をかけるのは先生。高校生に? それでいい。正しいか親切なほうか、迷ったら後者。「Wonder」という小説の一節を実践し続けている。生徒の手が動くなら、別に僕はこういうのは気にしない。時間がかかる場合もある。でも、自分で手と頭と動かすほうを選びたい。

今日は模試だった。みんな、志望校はどこと書いたのだろう。お世話になった人に、余裕があるときは周りの人に、自分の近い人に、親切にできる大人になってほしいなと、つくづく思います。




2021年11月3日水曜日

Be My Eyes

 3年生の選択の授業で視覚障がい者の方からお話をうかがった。

その中で、「これだけ便利になった時代で、よかったことと逆に困ったことを教えてください」と質問した。

困った話はこうだった。駅で点字ブロック上を歩いているときに歩きスマホをしている男性とぶつかったそう。そのときにその男性のスマホが落ちたらしく、どうやら傷がいったらしい。「何してるねん! どないしてくれるねん!」とかなりやりこめられたそうで。これだけでも十分悲しいのに「こういうときのための保険があるんです。不慮で壊したり傷つけたりしたときに保障してもらえるもので」というのを聞き、それも弁済しないといけなのだな、許してもらえるっていうのは甘いんだなと、じわじわとつらくなった。

結局話し合いは平行線で、弁償しますという話をしたら「もうええわ!」とすごい剣幕で帰っていったらしい。これは現実の話。

聴いていた生徒が「そういう場面に出くわしたときは、仲裁に入ったほうがいいのでしょうか」と質問した。勇気ある子だなと思った。「そういうときに、特に私たちのような者は状況がわからないから入ってもらえると非常にありがたいです」とおっしゃった。「たいてい、そういうトラブルになったらみんな素通りです。今回もそうでした。私たちは一人では困ることが多いので、入ってもらえると大体は「もうええわ」とその場を去ってくれるケースが多いです」と。これは仲裁というか、なんとかその場を平穏に、しかも障がい者側が「折れる」形で一応の解決とする話。僕たちはそんな世間を生きているのだなと思った。

よかった話。スマホの普及は一気に生活を変えたという話だった。iPhoneは音声でいま何のアプリを使っているか知らせてくれる機能がある。僕もiPhoneを使って長いが、知らなかった。僕の知っていることなんかほんの一部。その中で「Be My Eyes」というアプリを知った。これは視覚障がい者が何かお手伝いをお願いしたいときに、ここにエントリーしたボランティアがそれに応えるというものだ。「あなたの目になる」というアプリ。お話を聴いているときにすぐインストールした。全世界で530万人のボランティアがいて、35万人の視覚障がい者が登録している。圧倒的にボランティアのほうが多いが、障がい者ご自身がこのアプリを知らない人が多いとのことだった。

「本当にこれ助かるんです」ということで、改めて知らないことが多いなと思った。「あなたの目になる」というのは、ちょうど人の話を聴くのと同じことだ。あなたが見たことを、私がまた体験することになる。人の話というのはそういうもの。

僕にとっても貴重な時間となりました。

2021年10月27日水曜日

ノート点検は必要か


高校生に授業をするようになり、ノート点検の意味を考えるようになった。中学校では1年生のノートはまだまだ整理できていない。日を追うごと、年を経るごとに自分で整理できるようになり、だんだんと見返せるようになっていったものだ。しかし、高校生。

僕が用意した板書の「レプリカ」を見て、これは評価になるのだろうか。プリントはロイロノートで提出。貼っているかどうかなんて、学力をつけるというところから見たらまったく本質からズレたことだ。ノート点検しませんよ、というとノートを取らない生徒も出てくるだろう。そういうのも個人的にはあってもいいんじゃないかな、とさえ思う。

じゃあ点さえ取れたらいいのか。極論、そういうことになってしまうかもしれないが、論点は「板書が反映されたノート」を僕がチェックすることに何の意味があるのだろう、ということ。オリジナリティのあるノートもある。それはあくまでその生徒の学習の跡であって、見てもらうために「映える」ノートを作るようでは意味がない。

見直して、見返して学習になる。もちろん、授業を受けているときにノートを作ることで思考が言語化され、フレーム化され、自身の考えていることがまとまっていく。

じゃあ古典では? やはりノウハウめいたものを網羅したノートになりがち。果たして考える時間が授業のうちにどれくらいあるだろう。生徒を指名する意味も。考えを共有する、とかいうが、高校生にどこまでそういうことが必要なのだろう。いらないとは言わない。どこまでか、ということ。

学習に向かう以外の力学が働いている。生徒の頭がヘトヘトになる授業がしたい。ノートはあってもなくてもいい。授業をちゃんと受けるためのお作法のためのノートであれば、双方にとってよろしくない。ノート点検、いるんかねえ。

2021年10月26日火曜日

月曜から夜ふかし

すいません、番組じゃありません。

いまやっと授業の準備が終わったところです。


今日は明日の3年生の選択の授業の仕込み。6回にわたって手話の授業をした。それ以来、僕も手話を勉強しようと決めた。細々とやっている。

前任の中学校では1年生が近くの聴覚特別支援学校と交流する行事があった。あのときにもっとちゃんとやっていれば、と思ったけど、後の祭り。でも、所属した学年で3回ほど交流したので資料がたくさんある。明日はそれを使って。何が役に立つかわからない。

この選択の授業はボランティアについて学ぶ授業。僕自身、ボランティアについてよく知っているわけじゃない。ただ、自分の位置から話せることはいろいろとある。前は災害ボランティアについて、その前は車椅子の実習。これも全部自分のストックのうち。経験はしておくに限る。

大阪の生野特別支援学校の事故の裁判の話を最後にしようと思っている。前任校の近くで起きた悲しい事故。裁判はまだ続いている。僕たちはこういう出来事と地続きの世界に生きている、という話をしようと思っている。

たった数名のための、1回きりの授業。使い回し無し。これも僕にとっては本当にいい機会だと思う。

月曜から夜ふかし、終わります。

みなさんもほどほどに。

2021年10月22日金曜日

ごく普通の平和な一日

 


今日は朝からボリューム満点の一日でした。

球技大会。最高の天気でした。僕は特に割り当てがなかったので写真を撮ったり、試合の合間にみんなと話したり。こういうときの会話は学校の中での「非日常」。いつもは話す側、聴く側の関係が一気に打ち解ける。

「先生、古典のテストどうでしたか」「私、こういうのあんまり好きじゃないんです」「こういうときに一生懸命やる子にキュンキュンします」「女子の前で本気ハズいっす」

ちょっとしたやりとりだったけど、生徒の中に少しずつ入っていけているような気になる。試合を見守る先生方とも会話を交わす。担任の先生のまなざしを垣間見る。

午後からはボランティア清掃。校長先生の発案で有志を募って学校の掃除をした。おもしろそうなので僕は参加した。教師も生徒も有志。やり始めると止まらない。僕がいないうちにソフトの子たちは自主練習。こういうのに部活生徒を駆り出して、というのをよくやってたなあ。ちょっと懐かしかった。掃除の謝礼にジュースとお菓子が机上にあった。ちょっとしたことだけど、こんなちょっとした計らいが僕は好きだ。

掃除のあとはノックを打ちに。明石市はこの時間、雨が降ったり止んだり。ノックを小一時間打って、明日の準備をして終わった。今日は5人。この人数で頑張れる部員たちを誇りに思う。ソフトボールのノックも慣れてきた。軟式のノックとは違う。これはまた別の機会に。

部活のあと、採点業務。教頭先生に「話があるから、時間とってもらえますか」と朝に打診されていた。採点の合間に聴くと、ある調査に協力してほしいとのことだった。できそうなので受諾。若手の先生に声をかけているようだった。僕はもうヤキが回っているけど、いいとのこと。

トイレに行った折に、近くにいた生徒会の子に「今日はおつかれさま」とねぎらいの声をかけた。球技大会、昼の清掃、昨日の緑化運動と連日の取り組み。ホッと一息つけたと思う。「今日はもうヘトヘトちゃうの?」と授業に行っていないけど、名前を聞いたことのある2年生の子。「みんな楽しそうだったのでそれで十分っす」

カッコええこと言うやないの。「立派やなー、今日は楽しかったよ」と再度ねぎらった。

帰路。帰りがけに晩酌用のお酒を買う。今日はもう仕事をしないので、いいやと思って。みんなおつかれさまでした。もう絶対に戻ってこない、今日の時間を懐かしく思うのはいつだろう。テスト明けの絶妙な時期の行事。楽しい一日でした。

2021年10月20日水曜日

完答と完解

 大阪市から兵庫県にうつって、気になる言葉の違いがある。

2つあって一つ◯、というような解答のシステムを

「完答(かんとう)」って

大阪で勤めていたときに言ってたけど、兵庫では

「完解(かんかい)」という。

もう一つ、大きな問題のくくりを「大問」と書いて

「だいもん」と呼んでいた。兵庫では

「たいもん」と呼ぶ。(ウチの学校だけ?)

こういう微妙な差異を、郷に入りては郷に従え的に言い換えてもいいのだけれど、長年使っていた語を言い換えるのは気恥ずかしいな…。

2021年4月3日土曜日

高校へ

 しばらく更新が滞っておりました。


このたび17年間の大阪市の中学校教員の職を辞し、兵庫県の公立高校の教員となりました。

それに伴い、野球部顧問から女子ソフトボール部の顧問に。

小学生にソフトボールを指導していたことはありますが、高校生、女子は初めて。

あまり頻繁に更新はできなくなると思います。またイチから勉強の日々です。

なぜ高校へ? なぜ兵庫へ?

教員採用試験の面接でも、会う人、会う人に言われましたがこれが今の最善です。

まさかこの歳で採用試験を受け直し、初任者になるとは。

一生懸命頑張ろうと思います。


今日、初の週末練習。楽しくできました。

みんなで頑張ります。

2018年9月15日土曜日

「負け審判の一日」

今日はやっと3回戦。ウチが負けた学校の試合を審判する「負け審判」の義務審判で桜川へ。雨で順延が続いていたが、総務の先生がひと安心できる一日だった。
一方で、今日は運営がバタバタ。これだけ順延してくると運営にまで気がなかなか回らず、試合のある学校でなんとか回した。そんなことならウチの子たちを連れてきて、いっしょに運営したらよかったと悔いる。

勝っても反省、負けたら終わりのトーナメント。LINEで速報が入る。今日でベスト16。一点差ゲームも相次いだ。
僕は早めに会場に行き、一人で詰めた。このバックヤードの感じが好きで、あれやこれやと情報交換する。僕の恩師のM先生も「大会の裏で好き勝手言うのがおもろいねん」と話していた。僕らを受け持ってくださったくらいの年齢になった。遥か遠く及ばない。
今日のゲームは動きが多かった。2塁審判。おもしろかった。試合中に審判同士でブリーフィングしながら進める。今日はリラックスしてできた。今度は17日。ベスト4がけの試合を担当する。
審判をさせてもらいながら、またまたいろんなストックができたことにありがたみを感じる。生徒に還元したい。強くなって生徒といっしょに喜べたらなあ、と思う一日だった。
【遅れ馳せながら結果です】
H30.9.2 ✗墨江丘
● 0−20(5回コールド)
ウチはコールド勝ちのあと、コールド負けでした。でも1年生、みんな頑張っています。楽しみな子たちなので、一つでも多く勝って成長させてやりたいです。

2018年8月5日日曜日

「感謝」と「声」

今日の午前中は隣のブロックの合同練習に。ブロック加盟校が全部員を引き連れて参加。規律、統率、実直。このブロックはストイックに自分たちの普段の姿勢を問い直させるものだった。「感謝」というキーワードで今日の練習会は行われた。
「感謝をどういうふうに表現していくのか」という問いかけを、講師の先生が生徒にしていた。とても興味深い質問。「あいさつ」「声」と、生徒なりに考えて返答。僕ならどういうふうに「感謝」を体現するかな、と自問した。僕なら「行動で示す」と言うかな、と。「具体的にはどんな行動か」と問われたら「一生懸命にプレーすること」と答え、「どうすれば一生懸命プレーできるか」と問われたら「野球を好きになること」と答えるかなと一人で考えていた。
好きだから頑張れる。だとすれば、どうやったら好きになれるのか。僕らはそれに腐心しなければならないと思う。果たして、僕らは好きになれる活動をしているのか。勝ち負けに拘泥していないか。生徒のためと言いながら自分の理想の姿に当てはめようとしていないか。「心がない」という謂い。この手の発言をよく聞くけど、僕はとても危険に聞こえる。どんな生徒にも心はある。ないように感じるのは自身のアンテナの無さか。生徒に呼応する指導ができていないからだ。生徒に矢印を向けている間には顧問としての成長はきっとない。勝った負けたではなくて、教える者として。生徒に何を残せているのか、常に問える指導者でないとならない。
午後はウチのブロックの合同練習。同じ看板なのに様子が全然違う。こちらは秋のブロック選抜大会のプレ選考会。各チームから5名上限の限定参加だった。
「声出せよ!」とよく聞こえた。「声」は野球に不可欠。では、なぜ不可欠なのに出せないのか。ここに顧問のスポットは当たっているだろうか。やり直し、問い直しが常になるのは必要を感じていないからだろう。ではなぜ必要に感じないのか。そんなことをずっと考えていた。
感謝も、声も、本来なら外発的動機づけで強要されるべきものではない。だからこそ、自然に表出できる動機づけを。
若い先生方が必死に計画し実施された合同練習。僕に主だった仕事はなく、ずっとぼおっと眺めていた。生徒のサイズで伝えるのはもはや迎合ではなくて、時代の要請。グランドにいる顧問は真摯にこれについて考えていかないとな、と自分を含めて思った。良い先生たちの向かうべき方向。難しい。
上澄みだけが重用される部活動をもっともっと反省して、生徒の根っこに作用する指導をしていきたい。




2018年3月31日土曜日

「監督再開」


今日で合同チームは完全に解散。お別れゲームをやった。
久しぶりに上町中学校のユニフォームを着た。来られたお母さんに「珍しいですね」と言われたり、あるお父さんには「そういや去年の夏以来じゃないですか」と言われたり。監督業も久しぶりで、いつもつけてる手帳とかメンバー表とかも忘れてきた。リハビリ。
監督をやるとスイッチが入る。アツくなる人の気持ちをまた再確認。教えていないことで叱るな。見事に生徒の日常が出るので、つくづくおもしろいなあと思って見ていた。
一度来てもらえるとリピーターになる。これが部活動の中毒性なのかもしれない。
「カバン閉めようや」「早よ着替えよう」「荷物並べてー」こんな声を聞くとホッとする。明日で3年生になる子たち。1年生を迎える前に、見られている自分たちを意識させる声かけを最近はしている。ヒドゥンカリキュラムがいかに抜群の教育効果があるのか、話すとわかるようだ。
監督再開。相変わらず会いたい人になかなか会えず、行きたいところにも行けないけど、野球がどんどん好きになってきている生徒たちの様子を見ると、僕も野球が好きで関われることを、本当に幸せなことだと思う。

「春休みの練習」

投内連携のあと、バッテイング、あとは個人練習だった。
イメージとしては30分ずつのパッケージングで練習をデザイン。生徒にもそれを下ろした。
練習時間は3時間。生徒もこれくらいで十分という内容だった。
長い時間は誰のため? この練習は何のため?
長いことやっているからうまくなる、という上達論には与せず。ここからもっともっと良くしていく。それこそ、改革なのかなと思う。

2018年3月12日月曜日

「この試合おもしろいな」

今日は大会までの最終戦。二つ目は所用で最後までいられず辞した。それでもこの試合は見ていておもしろかった。
一つ目、手が届きそうで届かない。そんな展開で生徒も必死だった。結局スコアは3-5。見どころは多かったが、課題がはっきりとわかるゲームだった。監督をお願いしているペアの先生が「大会前はうまくいかないほうがいい」「そこで課題を見つけて一週間で修正していけばいい」そんなアドバイスをしていた。彼は前任校で強豪校を率いて大会でも屈指の好チームを作ってきた監督。声かけが非常におもしろく勉強になる。にわかに受け容れられないような、厳しい声もある。でも愛がある。僕は完全に任せていて、選手起用など相談してもらえるものの、基本的に監督先生の意向に沿っている。
「この試合めちゃおもろいな」とつぶやく生徒がいた。追いかける展開で劣勢の場面でもそういう声が出た。だからといって全部が全部、前向きに声を出し続けられたのかといえばそうではない。でも、ミスを飲み込み、それを乗り越えていこうとする姿を見た。
「おもしろい」というのは理想。これで勝てたらもっといい。明日は本来なら自主練習で自由参加の日だが、卒業式前で練習ができない日があるので「練習やりたいです」と申し出てきた。まだまだだらしないところもあるけど、おもしろいと思ってやれている活動だとすれば、こちらにもやりがいはあるなあと思った。誰のための活動なのか。生徒の手にそれがあるのか。グランドに怒声はいらんなあとつくづく感じた。

2018年2月18日日曜日

「前任校との対戦は」


忌引で2日間、空けた。抽選会と練習試合をお願いし、今日から復帰した。僕がいないしばらくのうちにいろいろあったそうだ。つくづく、中学校の野球部の顧問の「居る教育効果」の大きさを感じる。居たらいいわけではなくて、居るからできることがあるということ。
さて、今日は前任校と対戦。2年間いっしょに学年も野球もお世話になったT先生のチーム。弱々しかった横書きの細いゴシックの字体から縦書きの太い字に変えたユニフォーム。このユニフォームに本当にたくさんの思い出があるし、ここで多くのことを学んだ。

僕がナンバー3として赴任し、3年めに監督になった。そこからY先生(この方もすごい人)、H先生(市で3位チームを指導)、T先生(市で準優勝監督)と、専門の先生が4人いた贅沢なスタッフだった。しかも年齢がほぼ同年代。たまに会うと誰かれなしに懐かしい話になったり、年齢問わずふざけあって楽しい時間が流れる。僕もこの4人体制で野球をやっていたときが最高の時間だったと自負している。それをどこかでまだ追いかけ続けている自分がいて、同じことはできないのにそれを求めてしんどくなる。やっと最近になってここが自分の中で整理され、もう一段あがった感じがする。
試合は自チームの課題がたくさん見えた。技術面、メンタルの面。中学生は失敗して当たり前。当たり前というのは諦観ではなく、心の準備として。いま書いている原稿がちょうどそのことを書いている。失敗にとことんつきあって、いっしょにしんどい思いをしたい。見どころも多くなったこのチーム。あとちょっと足りない。そのあとちょっとを精神的なものの物足りなさでまとめようと、これまではしていた。絶対そうじゃない。具体的な方法、具体的なプレー、具体的な行動。何をすればそれが解決できるのか、という簡単そうで難しいことに今まで向き合っていなかった。生徒が苦しむのは僕が勉強不足で、具体的な言葉を持っていないからだ。ここがわかってからは生徒を責めることは全くなくなった。人は弱いところに目を向けたくなる。ここの強さが必要だ。
前任校との対戦はいつも何かに気づく。あと何回するだろう。そして今の学校もいずれ前任校になり、いろいろなことを思うのだろう。
〈結果〉
H30.2.18(日) ✕ 此花
① 0−3 ●
② 3−4 ●
此花は好投手が多かった。いいチームだった。「杉本先生が作ったチームを維持するのたいへんやで」って言われたけど、もうすっかり違う素晴らしいチームだった。

2018年1月18日木曜日

「労働問題としての部活動指導に疑問」

ある人から教えてもらった話。最近の部活動をめぐる報道は、こと労働問題としてのみ捉えられてピックアップされすぎていないか。ということ。かつて声を潜めていたサイレントマジョリティが、一つの突破口から溢れ出てもはやこの報道の大勢を占めるような格好になった。皮肉なことに、ひたむきに生徒と向き合っている人の声が今度はサイレントになり、声を上げずに悶々としている。そうじゃないだろう、と。
制止を振り切って話すと、部活動が生徒の成長にどれほど寄与してきたのか、果たしてどこまで「ひたむきに」研究されてきただろうか。労働問題として語られるときに、ここぞとばかりに僕らの時間外の仕事がなんでも違法だと言う声もある。僕はこんなの無視していいと思っている。できる人ができることを。それでいいはずなのに。我が子が小さいから土日はできない。こんな当たり前のことで、もし責め立てられる同僚がいたのならそれをカバーしきれない周囲にこそ問題があるのではないか。好きな人だけがやればいいのに。すいませんが、現状のほとんどはそうなっていますよ。定時に帰る先生を呪わしく思わないし、若い人にばかりしわ寄せがいく様子に隔靴掻痒でいる人もいる。部活動の研修会があったにせよ、参加して本当に声を上げてほしい人たちがそこにはいない。では誰がここで話しているのだろう。
脱線した。生徒が部活動を楽しみに登校してきて、授業で頑張って放課後に活動する。多忙化してほとんどの隙間のない放課後の時間を縫って顔を出す顧問。免罪符として週末に試合や少し長い時間の活動をし、生徒が枯渇している部分を潤す。こちらもつらくなるときもあるけど、やっているうちにできなかったことができてくる。うんざりすることもある。でも、この仕事って、そういうものなんじゃなかったのかとさえ思う。生徒がひたむきに打ち込む姿に、時間と体力と気力が許す限り一緒にいてやりたいと思う。立て込んでしんどいときもある。でも少し前に進めば嬉しいし、できなければやはりしんどい。この一進一退が部活動の醍醐味で、涙で試合を終えた生徒が笑顔で引退し、やっててよかったですと言って卒業していく。下手で怒られてばっかりだけど仲間がいたから頑張れたし、もっとやってみたいから続けたい。あの試合で負けたから、もっと真面目にやればよかったと後悔したから、好きになってしまったから。これから生きていく上で生きがいややりがい、自分のいろんなところに気づかせてくれる良い機会として、部活動は長らく学校の中で行われてきたのではないか。科学が発達し、情報が入りすぎて自分が向き合っている部活動や、生徒たちに対して、果たしてこんな形でいいのか不安になる。でも目の前に一生懸命頑張る子たちがいるから、少しでも力になってやりたい。
ただ昔より責任は重くなり、周囲の目も厳しい。外に出せば良い、時間を減らせばいい、やり方を見直せ。外に出せば外との調整で手を取られ、時間を減らせば自ずと中身を濃くせざるを得なくなり、やり方を見直そうとも良きモデルがいない。いたずらに外国のメソッドや海外の例が取り沙汰される。こんなことを眼前に曝されて、意気揚々と部活動指導に向かっていけるこれからの世代はどれくらいいるのだろうか。
だからこそ、今までの良さをもう一度見直し、学校がいま出来得る部活動の形を必死に考える時期ではないのだろうか。黙っていては下手に剪定された植木みたくなる。剪定するのは僕たちでなくてもいい。ただ「そこはダメだ」「こうしたほうが絶対にいい」と立ち会う人が必要だ。
声を上げ始めている新しいサイレントマジョリティの声を形にして、議論の俎上にあげていく。ほんの微力に過ぎないけど、そんな仕事に関わっていきたい。

2018年1月4日木曜日

「部活動改革の本丸は何か?」

僕は違うことを考えている。部活動は絶対に学校には必要だ。ただ、形は変わってしまってもいい。
部活動を完全に外に出すことは外の人はきっとそう言う。その上、しんどい思いをしている現場の先生もそれに賛同する。ここに異論はないし、当然の摂理だとも思う。
僕は15年ほど公立の中学校で働いているけど、良くも悪くも部活動の教育効果は大きいのを見てきた。もちろん、顧問の暴走や暴挙も。それと部活動をめぐる時代遅れの見方も。僕はこちらのほうが問題だと感じていて、そこに関する発信をしていくのが自分の立場なのだと最近わかるようになってきた。Twitterの訳のわからん連中に躍起にならず、正々堂々と自分の思っていることを話していきたい。
部活動のシステムに瑕疵(と言うべきか制度疲労と言うべきかわからない)があるのはもう隠せない。でも、無償でその競技や技術に触れられることは今までたくさんの生徒を育ててきたはずだ。加えて、一つの居場所として機能しているし、勉強の場面ではなかなか自分の力を活かせない生徒が良さを発露できる場としても。その生徒に関われる先生が多かったほうが多様な角度で生徒を見ることもできるし、他の学年であれば違う立ち位置だからこその声かけもできる。
僕は若い先生が「こうしなければならない」というものが、勝利至上であったり、顧問の機嫌で生徒に負担をより強いたりと、モデルケースにそろそろ時代遅れなものであることが問題だと思っている。「あいつはこれくらいやってもいい」とか勝手な思い込みで顧問が無茶をさせる。それをおもしろがって、違う学校の先生が自分のチームでも同じように生徒に強いる。「シメ方が足らんのや」とか言ってアホじゃないかと思うような怒鳴り方やペナルティを与えて恐怖で生徒を縛りつける。ひいては、その姿勢こそ「部活動顧問たるもの」と思い込まされて、キャラ違いの振る舞いをして自分をよりしんどくさせていく。土日、家族やプライベートを擲つのは当然で、その場にいないことが「非常識者」のレッテルを生徒、保護者だけでなく、同僚や関係者も同様にみなす。
僕はこれが部活動をめぐる問題で一番しんどいと考えている。僕がもしできることがあるとすれば、この違和感を共有して、できる人を増やして、それを共有すること。そして、もっといいやり方を考えていくこと。そして、それをきちんとした考え方として確立していくことなのだと思う。
改革の本丸は、甲子園大会に向かう際の異常な精神性にある。ずっとこれは僕が言ってきていることだ。「異常な」というのがポイントで、なんとかも味噌も同じみたいな発想で考えないでほしい。言いたいことはそうじゃない。普通のやり方で、無理はあってもきちんと休めて、学校の行事にも参加できて、場合によったら「これで大丈夫かな」と思うような気分転換もあって。命をかけるとか、本当にそういうことを軽々しく教育の現場に持ち込んでいいのかなと思ってしまう。これも先と同じで、趣味程度でやればいいとか言う意味じゃない。そういう姿勢で臨むのはあってもいいし、公言してもいいけど、今まで放置されてきた「無茶」にブレーキをかけて、違った方法や考え方でより良い結果を目指していく。これがこれからの部活動指導の求められるスタイルなのだと思う。
そう考えると、顧問を希望性でやっていくしかない。専門外の先生がもしその部をもつことがあっても、生徒や保護者は理不尽な攻撃をしてはいけないし、僕らはそういう同僚を守らなければいかない。そのために「これはどの部の先生もやらなあかんでしょ」「先生が部活動の指導者になるならこういう考え方でいなければあかんでしょ」というものを現場で実践している人が形にしていって、その中で時代遅れなものや学校の部活動は必ずしもプロを目指すものではないという考えなどを整理、修正していって、学校が出来得る部活動を作っていくことが急務だ。
外に出したらもう戻せない。ただ、絶対に先生は楽になる。でも、もうあの教育効果は得られない。ただ、それは学校の仕事じゃないかもしれない。
今こそ侃々諤々やればいい。やったことに喧々囂々言われるのは改革の黎明期には必然だ。
今年はもっとこの種の動きがあるだろう。渦中にいながら「これで本当にいいのか」ということを考えながら見ていきたい。補欠だった僕も何かの役に立てたらうれしい。

2017年12月25日月曜日

「3年生担任と顧問」

今日は雨上がりのグランドながら、部員といっしょに野球ができた。テニスボールでロングティーをやって、一心にボールをたくさん拾って自分たちが一球でも多く打つ。高校のときにやっていたスタイルを生徒に話すとすぐ乗ってきて、それでやっていた。こういう時間も3年生の担任をやっていると、なかなかとれない。指導につけない、席を外すことが多く、どうしても任せきりの練習になる。
先日、僕のもうひとつのグループでちょっと話題になった「つけないとき、どうするか」ということが、特に3年生の担任になると常につきまとう。免罪符的に週末に練習試合をやって、あれこれ言う。実は大切なのは毎日の練習なのに、プレミア感のある練習である練習試合で生徒をうんぬんしようとする。なんとおこがましいことか。
少しでもグランドへ。部活動のことを投稿しようと思ったとき、指導につけていないことをどうやって隠そうかと「エエカッコ」しようとしたけど、実際はべったりついて指導できることが少ないのでウソを言うのをやめた。それは僕の日常ではない。
3年生の担任になったら、殊更こういう要件でつけそうにない、と丁寧に話している。任せきりのときに練習がうまくいっていなくても、それは生徒のせいではない。顧問がうまくやりくりして生徒についてやればいい。つけない理由を仕事のせいにしない。こんな高尚な理論もあるだろうけど、担任をもった生徒が相談にきたりイレギュラーで懇談をすることになったりと、一生懸命向き合っての結果であれば、僕はもうここにいちいちストレスを感じないでいようと思っている。
これから進路指導が本格化する。関われる時間を丁寧に。ダメなときもそれを呑み込んで。いいときだけいい顔するのじゃなくて、うまくいかないときに上機嫌でいていっしょにやり方やあり方を考える。3年生担任のときの極意だと僕は思っている。

2017年11月23日木曜日

「『野球部だから』というおごり」

最近、部活動指導について考えるFacebookグループを起ち上げた。人数は少ないものの、かなり深い。コメントを交わすたびに、特に野球部の顧問には「野球たるスポーツに関わる特権」を感じる。野球だからということで知らず知らず自分に縛りをかけて、それが生徒をしんどくしているのかもしれない。このグループの先生たちは自分の指導に絶えず疑いをもっていて、これでいいのかなと思いながら日々過ごしている。その姿に大いに共感する。
先日、ある先生から聞いた。選手起用に関して、保護者がどうも納得いっていない。どうやら、我が子が試合に出られないことが大いに不満であるというような話だった。よく聞く話。
選手起用について、技術の巧拙だけで判断していいのなら実に容易い。肩が強い、足が速い、打撃がいい、守備がうまい。でも、授業がいい加減だったり、学年の先生に迷惑をかけたり、警察にお世話になったり、そういう生徒が試合で活き活きとプレーする。見方によれば、それがその子の長所であり、長い目で見てやる必要がある。でも、学校というところは、そういうことをきちんとやった上で日常があるのだ、という指導をする。学校の部活動は、ややもすれば上手な選手が試合に出られない。下手でも試合で活躍できる。変な世界。ただ、それは学校の部活動の意義と直結していて、そこがウヤムヤになるなら存在意義はないと言っていい。
ここは「野球部だからちゃんと指導しないといけない」ということではない。どの部でもすべき最優先事項のはずだ。ここは我々が是が非でも維持すべきラインであり、ここを侵すような事象は断固、毅然と対処していくべきと考える。
もうちょっと言えば、試合に出してやれないということに忸怩たる思いでその子を見、どうにかして周囲に認められる姿に変容できるように働きかけられないとか悶々とするのが顧問の務めではないだろうか。
一方で、野球部特有の変な風潮もある。プロ野球、高校野球に通じていく指導をすることこそがあるべき姿、指導である。坊主頭、休みなし、浮世離れした珍妙なあいさつ、掛け声。それはそれであっても良い世界だが、多様性が担保されない世界だと勘違いされるとたちまち生徒は苦しくなる。そこへの視野と、理想の姿を行き来できる指導こそ、特に野球部顧問には求められているのではないかと、ここ数日で感じている。
命をかけろとか、腕がちぎれても投げろとか、もうそういうのは退場していただきたい。学校の先生がすべき指導は、人並みの日常を当たり前に過ごさせること。プラスアルファに部活動がある。そういうことをつらつらと考える数日だった。

2017年9月30日土曜日

「幽霊部員について」

幽霊部員という言葉は死語かもしれない。いずれ言葉が変わっていくだろう、この幽霊部員だが、どこの学校でも必ずいる。この幽霊部員をめぐってトラブルがたえない。拙著にも提案したが、放置するからトラブルになる。積極的に関わるのが適切な、しかるべき指導だと考える。
たとえば体育大会のクラブ行進や卒業アルバムの撮影などで、気まずそうにしている生徒を見たことはないだろうか。全然部活に行っていないから自分の身の処し方がわからない。もうひとつ言うと、顧問もそれをそのままにしている。待っている、ということになるのかもしれないが、生徒から顧問に歩み寄ってくることはまずありえない。それなのに、放置してしまっているのが誤解のもとであるし、保護者からしたら「同じ学校にいててなぜ声をかけてくれないか」という話になる。ましてや同じ学年だと特にそうなる。
ここで保護者から説明を求められても、言い訳ととられるだけ。僕が新任の頃、保護者への対処が当日なら「説明」、次の日になると「言い訳」となると教わった。言葉遊びかもしれないが、教育は「今日行く」ことだ、という話。この図式にあてはめていくと、長く部活に参加していない生徒に関わらないのは顧問の仕事としては物足りないものだと思う。
僕は野球部で幽霊部員を長い時間かかえた経験がない。僕自身がもやもやするので、そうなりそうならきちんと話し合ってやめさせた。勝手にいなくなった子にも声をかけてお互い気まずい時間を過ごさなくていいようにした。やんちゃな生徒が縛りに耐えられず、部活を続けられないことがある。こういうときもこっちから関わって正式に退部させてきた。もっと若い頃はこのあたりがあいまいで悶々とした時間を過ごしたことがある。僕もそうだったし、生徒もきっと心地悪かったと思う。気持ちよく生徒には登校させてやりたい。
外部のスポーツチームなら幽霊部員は実質存在しえない。対価を払って指導を受ける以上、お金を払っているのに来ない子を放置することはありえないからだ。無償の外部組織であるなら、ひょっとしたらありえる話かもしれないが、指導者が学校関係者であければそれぞれのアプローチになるはずだ。
でもこれが学校の部活動なら大いにありうる。新任の先生や若い先生がこういう生徒を放置してしまうことがあるが、周りや学年の先生が提言して正式に手続きをさせてやらなければならない。いずれ学校への不信感になり、そのひずみはどこかで日々の業務に間違いなく跳ね返ってくる。「こういうときは自分からきちんと話にくるべきだ」というのは顧問の瑕疵。そういうことができる生徒が幽霊部員になるはずがない。何か後ろめたいところがあって部活に足が進まなくなる。保護者が知らないケースもある。こういう動きこそ、学校の部活動ならではの動きだと言える。
こういった、技術指導に行きつくまでの丁寧な指導のあり方がもっと研究されていいと思う。顧問の独自採算にせず、担任業務と同等に学年や学校あげてきちんと取り組んでいくべきだ。現場と研究の密接な連携が望まれる。部活動経営の一要素の事案だと僕は考える。

高校版 修学旅行に行ってきた

二泊三日の修学旅行を終えた。よかった。誰も損をしない行事になった。 ちょっと昔、修学旅行委員長に推した生徒がいた。引っ込み思案、でも、力がある。彼はやりたそうだったので、僕が推した。八面六臂、気配りや決断力があった。その彼をレクレーション大会のあと、みんなでサプライズで感謝の言葉...