2017年11月23日木曜日

「『野球部だから』というおごり」

最近、部活動指導について考えるFacebookグループを起ち上げた。人数は少ないものの、かなり深い。コメントを交わすたびに、特に野球部の顧問には「野球たるスポーツに関わる特権」を感じる。野球だからということで知らず知らず自分に縛りをかけて、それが生徒をしんどくしているのかもしれない。このグループの先生たちは自分の指導に絶えず疑いをもっていて、これでいいのかなと思いながら日々過ごしている。その姿に大いに共感する。
先日、ある先生から聞いた。選手起用に関して、保護者がどうも納得いっていない。どうやら、我が子が試合に出られないことが大いに不満であるというような話だった。よく聞く話。
選手起用について、技術の巧拙だけで判断していいのなら実に容易い。肩が強い、足が速い、打撃がいい、守備がうまい。でも、授業がいい加減だったり、学年の先生に迷惑をかけたり、警察にお世話になったり、そういう生徒が試合で活き活きとプレーする。見方によれば、それがその子の長所であり、長い目で見てやる必要がある。でも、学校というところは、そういうことをきちんとやった上で日常があるのだ、という指導をする。学校の部活動は、ややもすれば上手な選手が試合に出られない。下手でも試合で活躍できる。変な世界。ただ、それは学校の部活動の意義と直結していて、そこがウヤムヤになるなら存在意義はないと言っていい。
ここは「野球部だからちゃんと指導しないといけない」ということではない。どの部でもすべき最優先事項のはずだ。ここは我々が是が非でも維持すべきラインであり、ここを侵すような事象は断固、毅然と対処していくべきと考える。
もうちょっと言えば、試合に出してやれないということに忸怩たる思いでその子を見、どうにかして周囲に認められる姿に変容できるように働きかけられないとか悶々とするのが顧問の務めではないだろうか。
一方で、野球部特有の変な風潮もある。プロ野球、高校野球に通じていく指導をすることこそがあるべき姿、指導である。坊主頭、休みなし、浮世離れした珍妙なあいさつ、掛け声。それはそれであっても良い世界だが、多様性が担保されない世界だと勘違いされるとたちまち生徒は苦しくなる。そこへの視野と、理想の姿を行き来できる指導こそ、特に野球部顧問には求められているのではないかと、ここ数日で感じている。
命をかけろとか、腕がちぎれても投げろとか、もうそういうのは退場していただきたい。学校の先生がすべき指導は、人並みの日常を当たり前に過ごさせること。プラスアルファに部活動がある。そういうことをつらつらと考える数日だった。

高校版 修学旅行に行ってきた

二泊三日の修学旅行を終えた。よかった。誰も損をしない行事になった。 ちょっと昔、修学旅行委員長に推した生徒がいた。引っ込み思案、でも、力がある。彼はやりたそうだったので、僕が推した。八面六臂、気配りや決断力があった。その彼をレクレーション大会のあと、みんなでサプライズで感謝の言葉...