2018年10月14日日曜日

「傍観者としての顧問」



昨日は合同チーム2つとのゲーム。しかもひとつは去年まで組んでいたチーム、もうひとつはこの夏のはじめての練習試合をしたチーム。見どころは多い。
集合時間になっても一人の生徒が来ない。本隊は先に出発。僕は待っていた。放っておいてもいい。でもひょっとしたら来るかもしれないと思ったらやはり出発から10分遅れて来た。こういうときにどうすべきだったか、という話をする。僕の携帯を教えているので遅れそうならこれで対策が打てる。こういうときにその子の力が見える。部長なので後方支援に徹する。
1つ目の試合、去年まで組んでいた学校。ここは今年も合同。この地域は昔から生徒が少ない。今年の1年生は1クラス。一方で6も7もある学校もある。大阪市も一極集中の傾向が強い。
ゲームは拮抗。お互いもどかしい展開。ウチが先制するも、後半に追いつかれてドロー。課題がはっきりわかるゲームだった。ピッチャーに「テンポを早く」という言葉がけ。何をどうすればいいのか具体的にアドバイスしてあげよう、と監督先生に話した。指導者の発信が具体的でないと生徒は困る。困らせる意図であればいいが、そうじゃないのなら感覚を言葉にする。確実に伝えきることで徹底できる。
2つめ。エースになってほしい子の先発。ジリジリと点差をあけられ、志願して登板した5イニングめにつかまってワンサイドに。走者を背負ってからの投球に課題。攻め方にも工夫が必要。どのようにウチは点を取るのかということを意識させようと監督先生と話した。ゲームプランの重要性を感じる。
僕ならこうする、というのは言わない。聞かれたら話す。「僕なら」論は自分だったらうまくいくという間違った傍観者意識が強い。当事者になって考える。そうでないと受け手には迷惑なだけ。得てしてこういう言い方をする人が多い。それを訓示と捉えて若い先生はそうかそうかと聞く。当事者以上にそれについて考えている人はいない。気づいていないことがあれば話す。そういうやり方をしてほしいと僕はずっと思ってきた。目先の勝利のために野球のおもしろさから遠ざかっていくような作戦をどう考えるか。ここがズレたら僕の話はいらない。他のやり方のほうが勝てるかもしれない。それでいいのか、と。
先輩の言うことを無碍にしろという話ではない。伝える意思のある人からは学べるし、自慢じゃなくて本心から出ている言葉は伝わる。耳の痛いことを言ってくれる人がいる。それはそういう伝え方をする人。そこからでもその人の本心は伺い知れる。抽象的な敗因分析で生徒の頼りなさを理由とするなら、その方に外部指導者で来てもらえばいい。一方で、チームに関わる人はそういう気持ちでどっぷりと面倒なことを繰り返す気概がいる。逃げ道はすぐ横にある。逃げても帰ってこなければ進歩はない。
傍観者は無敵。絶対傷つかない。そういう安全地帯で好き勝手言う人は放っておけばいい。負けてまた勉強。勝っても勉強。それを繰り返すだけなのです。
【結果】
① △ 3−3 ✗築港・港(合同)
② ● 0−9(6回) ✗巽・田島(合同)
来週からブロック大会。がんばります。

高校版 修学旅行に行ってきた

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