2018年10月14日日曜日

「傍観者としての顧問」



昨日は合同チーム2つとのゲーム。しかもひとつは去年まで組んでいたチーム、もうひとつはこの夏のはじめての練習試合をしたチーム。見どころは多い。
集合時間になっても一人の生徒が来ない。本隊は先に出発。僕は待っていた。放っておいてもいい。でもひょっとしたら来るかもしれないと思ったらやはり出発から10分遅れて来た。こういうときにどうすべきだったか、という話をする。僕の携帯を教えているので遅れそうならこれで対策が打てる。こういうときにその子の力が見える。部長なので後方支援に徹する。
1つ目の試合、去年まで組んでいた学校。ここは今年も合同。この地域は昔から生徒が少ない。今年の1年生は1クラス。一方で6も7もある学校もある。大阪市も一極集中の傾向が強い。
ゲームは拮抗。お互いもどかしい展開。ウチが先制するも、後半に追いつかれてドロー。課題がはっきりわかるゲームだった。ピッチャーに「テンポを早く」という言葉がけ。何をどうすればいいのか具体的にアドバイスしてあげよう、と監督先生に話した。指導者の発信が具体的でないと生徒は困る。困らせる意図であればいいが、そうじゃないのなら感覚を言葉にする。確実に伝えきることで徹底できる。
2つめ。エースになってほしい子の先発。ジリジリと点差をあけられ、志願して登板した5イニングめにつかまってワンサイドに。走者を背負ってからの投球に課題。攻め方にも工夫が必要。どのようにウチは点を取るのかということを意識させようと監督先生と話した。ゲームプランの重要性を感じる。
僕ならこうする、というのは言わない。聞かれたら話す。「僕なら」論は自分だったらうまくいくという間違った傍観者意識が強い。当事者になって考える。そうでないと受け手には迷惑なだけ。得てしてこういう言い方をする人が多い。それを訓示と捉えて若い先生はそうかそうかと聞く。当事者以上にそれについて考えている人はいない。気づいていないことがあれば話す。そういうやり方をしてほしいと僕はずっと思ってきた。目先の勝利のために野球のおもしろさから遠ざかっていくような作戦をどう考えるか。ここがズレたら僕の話はいらない。他のやり方のほうが勝てるかもしれない。それでいいのか、と。
先輩の言うことを無碍にしろという話ではない。伝える意思のある人からは学べるし、自慢じゃなくて本心から出ている言葉は伝わる。耳の痛いことを言ってくれる人がいる。それはそういう伝え方をする人。そこからでもその人の本心は伺い知れる。抽象的な敗因分析で生徒の頼りなさを理由とするなら、その方に外部指導者で来てもらえばいい。一方で、チームに関わる人はそういう気持ちでどっぷりと面倒なことを繰り返す気概がいる。逃げ道はすぐ横にある。逃げても帰ってこなければ進歩はない。
傍観者は無敵。絶対傷つかない。そういう安全地帯で好き勝手言う人は放っておけばいい。負けてまた勉強。勝っても勉強。それを繰り返すだけなのです。
【結果】
① △ 3−3 ✗築港・港(合同)
② ● 0−9(6回) ✗巽・田島(合同)
来週からブロック大会。がんばります。

2018年9月24日月曜日

「気長にやる」


3校で練習試合。昔から僕らは「変則ダブル」と呼んでいる。いつもなら1校と2試合し、そうなると2つめは普段出番が少ない生徒のゲームになる。今日は違う。交代で審判や裏方をする。これも良い勉強。
今日は同期採用のS先生の学校と、昔から縁のあるM先生の学校とゲーム。ここは大会の会場にもなる。M先生は生徒のしつけにも厳しく、来るたびになるほどなあと思うことがある。

今日は試合前に顧問同士で技術室(控室)で談話。近頃は強い学校とそうでない学校の二極化が激しくなり、しかも大会で勝てないチームの力が総じて昔より格段に落ちるなあと話していた。今日は力のバランスがちょうど良いチームの3校だったので、相応のゲーム展開になり、課題がよくわかった。
かけ算わり算を覚えたての子に因数分解なんてできるはずがないのに、こと部活動の場面では顧問の要求がそんなふうに見えることがある。生徒は正しく間違うもの。因数分解に挑戦しようにも自分の持っているものでしか挑めない。答えられない生徒に答えを急いて、しかも間違うと激しく叱責する。そんな場面をよく目にしてきた。やった練習がすぐにできるようになるなら僕らの仕事は楽なもの。気長にやる。
ウチの子たち、一生懸命に「前で打つこと」を意識している。なかなかタイミングがつかめない。始動はいいのに、動きがまだ身体に入っていない。いっしょにやるしかない。守備。ランナーを背負ってからが「僕は次にどこに投げたらいいのか」ということが
まだまだわかっていない。気長にやる。
終わって、応援に来てくださっていた保護者と談話。こういうのが部活動の良さやなあと感じる。野球の話と生活の話と。負けてもいつも来てくれる。「みんな成長してますよね」と言ってくださった。いつまでも一年生ではない。もうすぐブロックのリーグ戦が始まる。勝ち負けがつくからもちろん必死でやるけど、そんなことだけに頓着せずに気長にやる。みんな楽しそうで苦しそうで、それぞれが持ち帰るものがあった様子。それでいい。
【結果】
H30.9.8(土)✗梅南 (杉本欠席)
◯ 15−1
H30.9.24(月)✗加美、鯰江
● 2−3(加美)
● 0−3(鯰江)
80分ゲームを3試合。3つとも審判でした。1つ目主審、2つ目と3つ目は塁審(でも二審制です)。
これにて連休終わり。文化祭ウィークですが、またみんなとがんばります。

2018年9月17日月曜日

「グランドでの指導者の声」


今日、僕は大阪市の秋季総体の審判で詰めていた。帰ってからある人からLINE。どうやらどこかの野球部の試合で、グランドで罵声を聞いたということらしい。その人はまた聞きなので真偽のほどは不確かだが「中学校ってまだそんなんなのか?」という趣旨の内容だった。
僕が思っていることを返信して、それからしばらく世間話をしてそのやりとりは終わった。違う仕事をしている人からしたら「相手は子どもやで」という感覚かもしれない。僕らがいつもやっていることは、子どもを変に子ども扱いしてもちろん成立するものではない。でもね、という話。

罵声の趣旨はわからないけど、いまその子はどんな気持ちで明日の活動をむかえるのだろう。きっとほとんど覚えていないだろう。だからこちらとしても気づかないのだ。子どもの失敗はだいたい「ごめんなさい」で済む。済まないならそれこそ大人の出番だろう。
厳しさはしつこさ。罵声は指導者のカタルシス。もう一度、立ち止まって僕らがやっていることを考えないといけない。他の立場からはそういうふうに見えているのです。

2018年9月15日土曜日

「負け審判の一日」

今日はやっと3回戦。ウチが負けた学校の試合を審判する「負け審判」の義務審判で桜川へ。雨で順延が続いていたが、総務の先生がひと安心できる一日だった。
一方で、今日は運営がバタバタ。これだけ順延してくると運営にまで気がなかなか回らず、試合のある学校でなんとか回した。そんなことならウチの子たちを連れてきて、いっしょに運営したらよかったと悔いる。

勝っても反省、負けたら終わりのトーナメント。LINEで速報が入る。今日でベスト16。一点差ゲームも相次いだ。
僕は早めに会場に行き、一人で詰めた。このバックヤードの感じが好きで、あれやこれやと情報交換する。僕の恩師のM先生も「大会の裏で好き勝手言うのがおもろいねん」と話していた。僕らを受け持ってくださったくらいの年齢になった。遥か遠く及ばない。
今日のゲームは動きが多かった。2塁審判。おもしろかった。試合中に審判同士でブリーフィングしながら進める。今日はリラックスしてできた。今度は17日。ベスト4がけの試合を担当する。
審判をさせてもらいながら、またまたいろんなストックができたことにありがたみを感じる。生徒に還元したい。強くなって生徒といっしょに喜べたらなあ、と思う一日だった。
【遅れ馳せながら結果です】
H30.9.2 ✗墨江丘
● 0−20(5回コールド)
ウチはコールド勝ちのあと、コールド負けでした。でも1年生、みんな頑張っています。楽しみな子たちなので、一つでも多く勝って成長させてやりたいです。

2018年8月26日日曜日

「新チーム初勝利」

今日は朝からドタバタ。集合は6:45。
直前に忘れ物を確認させると案の定、二人いた。
僕が集合場所に残って取りに帰らせた。
同時に、欠席者もいた。
そのなかに道具を持ち帰っている者がいた。
集合場所に持ってくるよう連絡。
忘れ物組到着。欠席者の道具待ち。
いっしょに待たせ、出発前に。
「いつ準備した?」
「今日の朝です」(二人とも)
「朝早くに急いで準備したらどうなる?」
「忘れ物するかもしれません」
「あったよね。チームの迷惑になってしまったなあ」
「すいません」
「次の試合のときに『俺めっちゃたいへんやったで』って、
みんなに教えたって。これじゃ野球に集中できひんやろ?」
「はい、めちゃ焦りました」
「じゃ行こか」
昔ならここで不機嫌になって試合に臨んだだろう。ややもすれば負けたときにはこういうことのせいにした。準備させたけど結局できなかったのは僕のせいでもあるし、生徒にも責任がある。自覚が出てくるとこういうのはなくなる。自覚とは責任のこと。単に「チームで試合に行く」というのではなく、自分がどういう役割を与えられてここに来るのかということがわかって、集合場所に向かうことで自然とそうなる。こんなので勝ち負けが決まらないが、こういうことで左右することはある。失敗したときにここぞとばかりに指導する。
試合。3−1になったときに安心ムード。
「これで勝てると思ってない?」
「もう終わること考えてるやろ」
「そんな気じゃ相手が追っかけてきたときに焦るで」
「相手があきらめるくらい、自分らのやることをやりきれよ」
9−1になった守備。
ここを守りきればコールド。
明らかに終わりばかり意識している。
野球はおもしろいことに、こういうときにピンチになる。
「点取られてもええからアウトもらえ」
「相手が一番困るのはアウトが増えることや」
「せこいこと考えんとガツガツいかんかい」
「点取られたらまた取ればいいねん。せこくいくな」
監督先生にとっても公式戦初勝利。
自分もベンチでは黙っていられないタイプだと気づく。
帰りの電車では皆熟睡。こっちが眠いわ、ほんま。
これで夏休み終わり。明日は始業式。野球部はオフ。
ひと休みしてまた来週からいろいろ頑張ります。
【結果】
H30.8.26(日) 秋季総体 1回戦 ✗桜宮
◯ 9−1(5回コールド)
オール一年生チーム。
みんなうれしそうでした。

2018年8月5日日曜日

「感謝」と「声」

今日の午前中は隣のブロックの合同練習に。ブロック加盟校が全部員を引き連れて参加。規律、統率、実直。このブロックはストイックに自分たちの普段の姿勢を問い直させるものだった。「感謝」というキーワードで今日の練習会は行われた。
「感謝をどういうふうに表現していくのか」という問いかけを、講師の先生が生徒にしていた。とても興味深い質問。「あいさつ」「声」と、生徒なりに考えて返答。僕ならどういうふうに「感謝」を体現するかな、と自問した。僕なら「行動で示す」と言うかな、と。「具体的にはどんな行動か」と問われたら「一生懸命にプレーすること」と答え、「どうすれば一生懸命プレーできるか」と問われたら「野球を好きになること」と答えるかなと一人で考えていた。
好きだから頑張れる。だとすれば、どうやったら好きになれるのか。僕らはそれに腐心しなければならないと思う。果たして、僕らは好きになれる活動をしているのか。勝ち負けに拘泥していないか。生徒のためと言いながら自分の理想の姿に当てはめようとしていないか。「心がない」という謂い。この手の発言をよく聞くけど、僕はとても危険に聞こえる。どんな生徒にも心はある。ないように感じるのは自身のアンテナの無さか。生徒に呼応する指導ができていないからだ。生徒に矢印を向けている間には顧問としての成長はきっとない。勝った負けたではなくて、教える者として。生徒に何を残せているのか、常に問える指導者でないとならない。
午後はウチのブロックの合同練習。同じ看板なのに様子が全然違う。こちらは秋のブロック選抜大会のプレ選考会。各チームから5名上限の限定参加だった。
「声出せよ!」とよく聞こえた。「声」は野球に不可欠。では、なぜ不可欠なのに出せないのか。ここに顧問のスポットは当たっているだろうか。やり直し、問い直しが常になるのは必要を感じていないからだろう。ではなぜ必要に感じないのか。そんなことをずっと考えていた。
感謝も、声も、本来なら外発的動機づけで強要されるべきものではない。だからこそ、自然に表出できる動機づけを。
若い先生方が必死に計画し実施された合同練習。僕に主だった仕事はなく、ずっとぼおっと眺めていた。生徒のサイズで伝えるのはもはや迎合ではなくて、時代の要請。グランドにいる顧問は真摯にこれについて考えていかないとな、と自分を含めて思った。良い先生たちの向かうべき方向。難しい。
上澄みだけが重用される部活動をもっともっと反省して、生徒の根っこに作用する指導をしていきたい。




2018年8月4日土曜日

「試合の周縁について」

今日は午後からゲーム。初の練習試合になった。学校に集合してから駅へ。自分が出てどんな試合になるか、どこで出場するか。楽しみに違いない。
浮かれている。

途上、広がって歩いたりお年寄りにぶつかりそうになったり、自分たちがどんな大きな集団で移動しているのか、荷物を持っているのか全く頭に入っていない。
相手校についてすぐに集合し、そのことを話した。ウチの部はまずそこを頑張ろうと言ってきたのじゃないのか。神妙な顔になった。
試合のあと、差し入れをいただいた。暑い日に冷たい差し入れ。二人の生徒がくださった保護者にお礼を言いに行っていた。いつもよく叱られる子たちだ。誰も教えていないのに、こういうことができる。他の子は。
ベンチに座って、勝手にいただいている。
「あの二人はお礼を言ってからいただいてたよ。それが普通じゃないの?」だだだっと駆けてお礼を言いに行った。これではもう遅い。
熱中症っぽくなって部屋や飲み物を用意していただいた。その子はコップを洗って返しに行っていた。そうか、そういうことはできるんやね。
初戦は3ー10の敗退。超が5つ付くくらいのワイドなストライクゾーンで試合を演出した杉本の主審でした。試合は生徒への指導のるつぼなのです。
H30.8.4
対 巽・田島合同チーム 
● 3−10
1年生の3人の継投。いよいよスタートしました。









2018年7月25日水曜日

「『中学生らしいチーム』とは」



今日も大会のお手伝い。ウチの生徒も不慣れながら少しだけ運営の補助をさせてもらった。大会は多くの人の協力のもとで成り立っているとあらためて実感した。
本部に詰めていると「中学生らしい良いチームやなあ」という言葉をたまに聞く。「たまに」というのは皮肉ではなく、本当になかなかお目にかかることができない。

行動が機敏であり、反応が正確。プレーに派手さはないが、ひたむきにボールに向かい、味方を応援する。劣勢でも常に鼓舞し続け、1点に歓喜する。こういうチームに勝ってほしいな、と思ってしまうようなチームだ。
ややもすると勝つことだけに価値がいき、球場の裏で取っ組み合ってふざけていたり、僕らの姿を見ても何の反応もしない。先生がこちらを一瞥しても会釈すらしない。残念ながらそういうチームもいる。
先日、新チームになったウチの子たちが学校で練習をしていた。僕はたまたま教室に用があったので廊下の窓から様子を眺めていた。すると、先生がグランドのそばを通っても、ほとんど反応していない。申し訳程度に「座りながら」あいさつをしている子も。ちょっと悲しくなった。
「暑いから休憩するのはもっともなこと。でも、立ち上がれないくらい疲れて、先生たちに挨拶ができないくらいだとすれば、挨拶ができるくらいの体力を残す練習をしなさい。いつお世話になるかわからない人に反応もできないのなら、そんな練習は単なる自己満足。そんなので勝っても値打ちはないんやで」
今日も良いチームがいた。勝ってほしいな、と思った。小手先でプロの真似をして勝っていくチームではなく、良識のある、中学生として応援したくなるようなチームに。この声が届くようになるまでどれくらい時間が必要かわからない。奇を衒って「常識を疑う」と喧伝して常識が蔑ろにされるのであればそんなものいらない。僕たちが接しているのは生徒だ。選手である前に生徒。そこの認識を忘れずにいたい。
高校野球の勝敗について、メディアがいろいろと報道している。美談は記事になる。ちょっと取材で行き来し、顧問と懇意だからといって身内面しようとする。ここの距離感を大事にしてほしい。どうしようもないときも僕らは毎日日常をともにしている。そういう人にしかわからないものがある。これは敬意の問題。
明日は球場で練習するよ、というと嬉しそうにしていた。そういう気持ちを大切にしてほしい。そして、大切にできる指導をしていきたい。「らしさ」は一日してならず。

2018年7月1日日曜日

「ラストゲーム」

ずいぶんとご無沙汰になりました。この間(かん)にたくさんの方が新しくメンバーに入られました。ありがとうございます。
さて、昨日は夏の大会までの最後の練習試合。昨年度までいっしょに合同チームを組んでいた学校とのゲーム。春、解散する直前にゲームをしたときはノーガードのゲームで、取って取られての大味な試合だった。
それから約3ヶ月。お互いの成長を存分に感じるゲーム内容だった。最終回、2点ビハインドで奮起を促すとなんとか追いついて同点に。夕立が来たのでここまで。勝ちも負けもない終わりに、何かとても満足のいくものを感じた。
試合前、三年生が忘れ物。土曜参観のあとの懇談会の間に待ち時間があったはずなのに、到着してから僕に言いに来る。しかも2人。ゲーム前に指導。あくまで部活動は勝ち負けより、こういうお作法を徹底することのほうがよほど大切だと言っている。もどかしいけど、これも一つの成果で僕がそのように育ててきたからと腹をくくるしかない。育ってほしいようには育たない。育てたように育つのだ。
ゲーム途中で出番を与え、三年生が全員出場し始めたところでムードが俄然よくなる。ミーティングのときにこれも話した。今日は何のために試合をしに来たのだ、と。僕がやってもらっているのではなく、させてもらっているというのをもう一度考えなさいと話す。
ずっとこういうことを言い続けてきたチーム。生徒に責任なし。次のチームにむけて課題をたくさんつきつけられたような時間だった。
夏の雲。来週の日曜が初戦。できる準備をしていこう。

2018年5月19日土曜日

「道具について」

先日、ウチの野球部の備品が届いた。新入生のユニフォームなど。メッシュになったり、軽い素材なったり、昔とは様子がずいぶん変わった。
ウチは割と早めに備品を注文する。残念ながら、すぐにやめてしまう子には不経済な話になる。これはやむを得ない。前任では、注文は5月を越してからだった。何かと「強いる」指導をしていたので、やめてしまう子はもっと多かった。あと、経済的なこともあって、自分で続けていけるという自覚が芽生えてきた頃に注文していた。
ウチではカバンも作ってもらっている。正直なところ、僕はいらないと思っている。でも、生徒からの要望もあり、続けている。途中入部の子たちには「エナメルバッグみたいなものがあるならそれでいいよ」と話している。グランドコートもない。必要がない。好きなものを使えばいい。ずっと体操服の子もいれば、家で買ってもらって来ている子もいる。さまざま。
ヨソのチームを見ると、すてきなグッズを揃えているところがある。やっぱりいいな、と思う。でも、そんなものはふりかけみたいなもので、なくてもなんとかなるし、そんなもの本質ではない。グラブも「お父さんが使っていました」というようなオールドミズノ(大きな「M」エンブレム)でもいい。
そんなことより、毎日手入れしたり、丁寧に扱ったりするほうが大切。手入れが行き届いている子のグラブやスパイクはすぐわかる。そういう子ほど、高校で続けてやっている。それがやれない子はきっと高校やその先で苦労する。投げる、打つ、走るができて重用されても。
大切なのは「モノ」ではなくて、それを使うにいたる「マインド」。わかっていながら徹底できていない自分の指導に反省する。

2018年5月12日土曜日

「13人のチームから」

昨日、3年生が修学旅行から帰ってきた。それまで1年生13人でやりくり。2ヶ月前まで小学生だった生徒たちが自分たちで練習をする。もちろん、会議や取り組みで僕もペアの先生も抜ける。メニューを与え、自分たちでやる。1年生特有の真面目さとアナーキーとが混在したチームでなんとか4日間。野球ノートにも具体的にいろいろと気づきがあった。
そして、今日3年生が合流。自由参加だった3年生が3人来た。昨日まで凛としていた1年生の様子が変わった。3年生に依拠するというか、自分たちの良さを出さずに漫然とした空気を許容していたように見えた。それを練習終わりのミーティングで指摘した。同時に、3年生が醸していた緩みも。これじゃいけないよな。みんな「あ、やっぱりな」という顔をしていた。
3年生には「わかってくれよな」という甘え、1年生には「中学校の野球をちゃんとわかってほしい」という気負い。顧問にも責任がある。総体として関わるのではなく個の集合がチームであるということを改めて考える練習だった。
やさしい先輩になれ。3年生にはずっとそう言っている。いちいち「やさしい」の定義づけはしない。そこは3年生にも成長してほしい。カウントすると夏まで100日ないらしい。でもウチなりの成長と課題とが、100日分ある。たぶんそういう毎日を過ぎて夏が来るのだと思う。

2018年4月21日土曜日

「20人になりました。でもやはり3年生に」

6人で活動してきた我が野球部に、新入部員が加入した。合計で20人。一気に大所帯に。練習にも活気が戻った。
1年生の様子を見ていると、捕ったり投げたりだけ見ると「お、いいかも」と思う生徒もいるが、トータルで見るとやはり3年生にはかなわない。
どうでしょう、この時期3年生や2年生の育成が思わしくなく、つい最近までランドセルを背負っていた一年生をやたらと褒めていませんか。
この時期、浸透の度合いから1年生ばかり重用し、上級生を邪険にすると思わぬ歪みになる。この時期こそ、今まで一緒にやっていた子たちを先輩扱いして、1年生の前で3年生たちがどういう時間を過ごしてきたかを話す。しんどい時期を一緒に乗り越えてきたんだ、ということを1年生に伝えきり、野球の場面だけで君たちと付き合っているのではないということを言い切る。技術の巧拙で人間関係を構築しようとする誤った感覚を一蹴し、学校の部活動のあり方をしっかり伝えた。
今日、4月はじめての休日の練習で1年生が3人遅刻。野球ノートも書いていない。3年生は全員遅刻なし、ノートも当然提出。こういうことが3年間の蓄積だと思う。大会で勝つこと「だけ」に注目している外野の視線をヨソに、日々は続いていく。僕らはそこ「だけ」見ているのではない。大げさに言えば、それは最後の最後でいいと言い切っても良いくらいだ。
この日常に右往左往しながら、日々の活動にあたっているごく普通の顧問の先生たちがほとんど。上澄みだけを掬い取って「これこそ青春」と言わんばかりに、大会の成績や優秀な選手にだけスポットがあたる現状に違和感というか、嫌悪感さえ抱く。それはあってもいいが、そうじゃないところの多くの学校の日常の指導に関心が向いてこそ、部活動の今日的な意味が見出されていくと感じる。
20人。20通りのドラマの伴奏者。日本一、地区大会突破、大会で一勝。そんなことどうでもいい。子どもいっしょにいる大人が本当に子どものために存在しているのかということに、関係者は真摯に向き合っていかねばならないと思う。

2018年3月31日土曜日

「監督再開」


今日で合同チームは完全に解散。お別れゲームをやった。
久しぶりに上町中学校のユニフォームを着た。来られたお母さんに「珍しいですね」と言われたり、あるお父さんには「そういや去年の夏以来じゃないですか」と言われたり。監督業も久しぶりで、いつもつけてる手帳とかメンバー表とかも忘れてきた。リハビリ。
監督をやるとスイッチが入る。アツくなる人の気持ちをまた再確認。教えていないことで叱るな。見事に生徒の日常が出るので、つくづくおもしろいなあと思って見ていた。
一度来てもらえるとリピーターになる。これが部活動の中毒性なのかもしれない。
「カバン閉めようや」「早よ着替えよう」「荷物並べてー」こんな声を聞くとホッとする。明日で3年生になる子たち。1年生を迎える前に、見られている自分たちを意識させる声かけを最近はしている。ヒドゥンカリキュラムがいかに抜群の教育効果があるのか、話すとわかるようだ。
監督再開。相変わらず会いたい人になかなか会えず、行きたいところにも行けないけど、野球がどんどん好きになってきている生徒たちの様子を見ると、僕も野球が好きで関われることを、本当に幸せなことだと思う。

「春休みの練習」

投内連携のあと、バッテイング、あとは個人練習だった。
イメージとしては30分ずつのパッケージングで練習をデザイン。生徒にもそれを下ろした。
練習時間は3時間。生徒もこれくらいで十分という内容だった。
長い時間は誰のため? この練習は何のため?
長いことやっているからうまくなる、という上達論には与せず。ここからもっともっと良くしていく。それこそ、改革なのかなと思う。

2018年3月12日月曜日

「この試合おもしろいな」

今日は大会までの最終戦。二つ目は所用で最後までいられず辞した。それでもこの試合は見ていておもしろかった。
一つ目、手が届きそうで届かない。そんな展開で生徒も必死だった。結局スコアは3-5。見どころは多かったが、課題がはっきりとわかるゲームだった。監督をお願いしているペアの先生が「大会前はうまくいかないほうがいい」「そこで課題を見つけて一週間で修正していけばいい」そんなアドバイスをしていた。彼は前任校で強豪校を率いて大会でも屈指の好チームを作ってきた監督。声かけが非常におもしろく勉強になる。にわかに受け容れられないような、厳しい声もある。でも愛がある。僕は完全に任せていて、選手起用など相談してもらえるものの、基本的に監督先生の意向に沿っている。
「この試合めちゃおもろいな」とつぶやく生徒がいた。追いかける展開で劣勢の場面でもそういう声が出た。だからといって全部が全部、前向きに声を出し続けられたのかといえばそうではない。でも、ミスを飲み込み、それを乗り越えていこうとする姿を見た。
「おもしろい」というのは理想。これで勝てたらもっといい。明日は本来なら自主練習で自由参加の日だが、卒業式前で練習ができない日があるので「練習やりたいです」と申し出てきた。まだまだだらしないところもあるけど、おもしろいと思ってやれている活動だとすれば、こちらにもやりがいはあるなあと思った。誰のための活動なのか。生徒の手にそれがあるのか。グランドに怒声はいらんなあとつくづく感じた。

2018年3月10日土曜日

「野球肘セミナーを通して」

今日はダイナミックスポーツの柳田育久先生にお越しいただき、野球肘セミナー。専門的なお話しをわかりやすく解説いただき、とても勉強になった。
「ケガ」と「故障」の違いの話をお聴きし、日常的に使っているワードなのにあまり真剣に色分けしたことがなかったなと感じた。
ジュニア期から手術が必要なくらいの故障って、どう考えても大人の責任じゃないのかと思う。柳田先生が途中でおっしゃった、大会と並行してのクリニックのあり方も大きな問題提起だった。
やり方じゃなくて、あり方。大人の考え方の柔軟性こそ、野球界に最も必要なものだと痛切に感じる。勝ちたいから痛いという子に投げさせる。少しくらいなら。アマチュアの「自称プロの指導者」ほど困ったものはない。自戒するのにふさわしい内容だった。置き去りにされているものが多すぎる。
本体はそのあとバッテイング練習。いつも一緒にやっている学校の子たちが今日はウチに来て練習。オール上町流で。良い刺激なっていたらいいなと思う。



2018年2月18日日曜日

「前任校との対戦は」


忌引で2日間、空けた。抽選会と練習試合をお願いし、今日から復帰した。僕がいないしばらくのうちにいろいろあったそうだ。つくづく、中学校の野球部の顧問の「居る教育効果」の大きさを感じる。居たらいいわけではなくて、居るからできることがあるということ。
さて、今日は前任校と対戦。2年間いっしょに学年も野球もお世話になったT先生のチーム。弱々しかった横書きの細いゴシックの字体から縦書きの太い字に変えたユニフォーム。このユニフォームに本当にたくさんの思い出があるし、ここで多くのことを学んだ。

僕がナンバー3として赴任し、3年めに監督になった。そこからY先生(この方もすごい人)、H先生(市で3位チームを指導)、T先生(市で準優勝監督)と、専門の先生が4人いた贅沢なスタッフだった。しかも年齢がほぼ同年代。たまに会うと誰かれなしに懐かしい話になったり、年齢問わずふざけあって楽しい時間が流れる。僕もこの4人体制で野球をやっていたときが最高の時間だったと自負している。それをどこかでまだ追いかけ続けている自分がいて、同じことはできないのにそれを求めてしんどくなる。やっと最近になってここが自分の中で整理され、もう一段あがった感じがする。
試合は自チームの課題がたくさん見えた。技術面、メンタルの面。中学生は失敗して当たり前。当たり前というのは諦観ではなく、心の準備として。いま書いている原稿がちょうどそのことを書いている。失敗にとことんつきあって、いっしょにしんどい思いをしたい。見どころも多くなったこのチーム。あとちょっと足りない。そのあとちょっとを精神的なものの物足りなさでまとめようと、これまではしていた。絶対そうじゃない。具体的な方法、具体的なプレー、具体的な行動。何をすればそれが解決できるのか、という簡単そうで難しいことに今まで向き合っていなかった。生徒が苦しむのは僕が勉強不足で、具体的な言葉を持っていないからだ。ここがわかってからは生徒を責めることは全くなくなった。人は弱いところに目を向けたくなる。ここの強さが必要だ。
前任校との対戦はいつも何かに気づく。あと何回するだろう。そして今の学校もいずれ前任校になり、いろいろなことを思うのだろう。
〈結果〉
H30.2.18(日) ✕ 此花
① 0−3 ●
② 3−4 ●
此花は好投手が多かった。いいチームだった。「杉本先生が作ったチームを維持するのたいへんやで」って言われたけど、もうすっかり違う素晴らしいチームだった。

2018年2月3日土曜日

「『最大の味方は努力』か」



寒いこの時期の小さな大会。今年は合同チームなので、一年の過ごし方がいつもと違う。ちょっとハードながら、ペアの他校の先生に運営を任せているのでとても勉強になる。今日、大会が終わった。
会場をお借りした北淀高校。ここも人数不足でやりくりが苦しいそうだ。いっしょにチームを組んでいる茨田(まった)高校の生徒さんと、2校の子たちが運営を手伝ってくれた。部員が100人を超えるチームもある。甲子園の選抜も近い。でも、こういう野球部も全国には珍しくない。

茨田高校の先生とは個人的にお付き合いもあり、久しぶりにじっくり話せた。話せば話すほど、こういうやりくりがしんどいチームは中学校の部活動と似ている。ハードルを下げると気がかりなことが増えるし、上げると部員が集まらない。得てして、中学校のしんどい学校の運営に実に似ている。普通の活動がしんどくなるので、手のかかる子たちは部に入ってこない。もしくは自然淘汰される。こういうのは部や学校の方針と密接に関わっており、逆にしんどい子を抱えるケースもある。そんなときは学校あげてのサポートで成り立つこともあるが、多くは「やめささないでほしい」と当事者の苦労を措いて運用される。このあたりの話題は主義主張が各人であろう。でも、当事者にとってはその日その日、胃が痛い思いをし、しかも活動日が少なくなると真面目な子も物足りなさを感じる。同僚も「野球部やのに休みが多いね」などと言わないまでもそんな空気を醸し出す。やってられるはずがない。
さて、抜群のグランドで、ダッグアウトに言葉が掲げてあった。こういうのは個人的に好きだ。毎日この言葉を見ながら活動する生徒に刷り込まれていく。大切なことだ。ウチの子たちもベンチに入ったときに、これらをじっと眺めていた。時間が経てばそれは風景になる。言葉は風景にならないためには、言い続けないといけない。僕は今日の最後のミーティングでやっぱり「カバンを揃えて置きなさい」「帰りのミーティングまでの待ち時間に片付けが終わっていなかったのはなぜだろう」と、いつも言っていることを繰り返した。こういう繰り言を言っているうちは野球の話に行き着かない。うまくなるチャンスを逃しているよ、ということを今日も言った。言い続けるのが顧問の仕事。やめるのはいつも指導者なのだ。
 いい選手である前に
 いい生徒であろう
 いい生徒である前に
 いい人間になろう
2段落目、こういうこと言っているから野球は敬遠される。いい人間になろうって、まず大人はどうなのだろうか。いい生徒を目指す。これこそ、部活動の最大の意味だと僕は痛切に思う。最大の味方は「努力」ではなく、最大の味方は「見方」なのだ。同じ景色でも欲望、関心の度合いによって引っかかる部分が変わる。その欲望や関心をどこに向けていくのか、向けさせるのかが顧問の仕事。たとえば「努力」に向けさせたいなら、なぜ努力に向かうべきなのかということを言い続けなければならない。これは途方もない仕事。だから同じことを言い続けるのだと思う。
〈結果〉
H30..2.3 住吉高校杯 3位決定戦
✕ 金岡  ○8−0 (5回コールド)
今日はウチの子が勝ち投手。センスのある子が伸び悩んでいたのでサイドスローをすすめた。やっと結実。見方を変えた結果が出た。

2018年1月28日日曜日

「長いミーティング」



昨日、今日と小さな公式戦。6チームのトーナメント。昨日は快勝、今日は惜敗だった。
チーム内の様子がとても心配な二日間で、危なかっしい場面も。たぶんこういうところを指導していく必要があるのだな、という場面が散見した。試合の内容より、そういったお作法にものすごく気をつかう。
今日は帰りがけ、そのあたりを整理する長いミーティングをした。野球の失敗はグランドでしか取り返せないし、トータルで見たら失敗と言わなくていいものもある。でも、お作法や振る舞いでのエラーはただちに改めなけれらならないし、それを拒んだり乗り越えようとするならこちらは指導のレベルを上げていくことになる。それを望むのか、という迫り方。こっちだって本意じゃない。思うに、僕に寄りかかって甘えている。甘えや怠惰は関係を作っていくうえで峻別すべきで、寛容と迎合は別物。言いたいことを全部話した。怒気は含まずおだやかに。
久しぶりに長く話したあと、帰りの電車で4月に新入生を迎えて新しいメンバーで単独チームになるときにどこを守りたいか生徒と話しながら帰った。相談の中に僕もいた。やりたいやりたくない好きなことを言ってる中で、こうやってみんなが納得する形を作っていき、はみ出したら今日みたく形を整えていけばいい。そんなことを考えながらの帰路だった。技術指導を載せる前のテーブルが散らかっていては物を置けない。置いてもすぐ落ちる。今日はそんな日だった。
〈結果〉
H30.1.26
× 東我孫子 ◯ 7-0 5回コールド
H30.1.27
× 春日出 ● 0-3
来週は3位決定戦。北淀高校にて。寒風吹きすさぶ、雪が舞う中のゲームでした。

2018年1月21日日曜日

「今シーズン初試合」



いよいよ練習試合がはじまった。今日は大阪市でも東の果ての学校と兵庫県のチーム。久しぶりの試合だったのでみんな嬉しそうだった。ウチのキャプテンがずっと前向きな声を出していた。そういうことができるようになったのだな、と成長を感じる。僕はずっと審判。ひとつめ主審。ふたつめ二塁塁審。みっつめは一塁塁審。やりながら生徒に声をかけ続けた。
ウチは合同なので、監督はペアの先生に全権委任している。キャプテンももうひとつの学校。ウチのキャプテンは微妙と言えば微妙だが、同じようにみんなに声をかけている。今日は試合のあとで、キャプテン同士で話したらどうだと持ちかけた。審判をしながら見ていると、ウチのほうから声をかけていた。こうやって積み上がっていくのだな、と感じた。

これは批判ととられればそうかもしれないが、僕はこの合同チームの運用の仕方に疑問を持っている。一方で、見方を変えたら仕方ないという気持ちにもなる。合同チームはこの春まで。春の大会が終われば、新入部員をあわせて9人におそらくなる。なったらもう解散。夏から秋、冬、そして春を越えて、夏は違うチーム。ちょっと悲しいなと思う。せめて夏までは同じ子たちで、とも思うが、それは学校という枠組みでやっている以上、不可避な問題である。仕方ないけど、何かやるせない。あと2ヶ月あまり。
随所にいいプレーは見られた。でも僕は野球以外でたくさん注文を出した。それが生徒の本当の成長になるのだと信じ、それこそ覚悟を決めて、うるさいと思われてもやり抜こうと思う。
来週から小さな大会。はじめてなのでどうなるかわからないけど、みんながたくさん試合の経験をして、失敗して、悔しい思いをして、うまくなりたいと思って、明日を迎えられたら本当にうれしい。今年は野球の勉強をしっかりしたい。みんなで強くなりたい。いろんな人に教えてもらおうと思う。
(結果)
1 対 井高野中・西淀中 合同チーム ● 2−6
2 対 伊丹市立荒牧中 ● 0−7
荒牧中さんは強かった。聞くと地区では勝ち上がっていないそうで。兵庫県はレベルが高い。来週も頑張ります。

2018年1月18日木曜日

「労働問題としての部活動指導に疑問」

ある人から教えてもらった話。最近の部活動をめぐる報道は、こと労働問題としてのみ捉えられてピックアップされすぎていないか。ということ。かつて声を潜めていたサイレントマジョリティが、一つの突破口から溢れ出てもはやこの報道の大勢を占めるような格好になった。皮肉なことに、ひたむきに生徒と向き合っている人の声が今度はサイレントになり、声を上げずに悶々としている。そうじゃないだろう、と。
制止を振り切って話すと、部活動が生徒の成長にどれほど寄与してきたのか、果たしてどこまで「ひたむきに」研究されてきただろうか。労働問題として語られるときに、ここぞとばかりに僕らの時間外の仕事がなんでも違法だと言う声もある。僕はこんなの無視していいと思っている。できる人ができることを。それでいいはずなのに。我が子が小さいから土日はできない。こんな当たり前のことで、もし責め立てられる同僚がいたのならそれをカバーしきれない周囲にこそ問題があるのではないか。好きな人だけがやればいいのに。すいませんが、現状のほとんどはそうなっていますよ。定時に帰る先生を呪わしく思わないし、若い人にばかりしわ寄せがいく様子に隔靴掻痒でいる人もいる。部活動の研修会があったにせよ、参加して本当に声を上げてほしい人たちがそこにはいない。では誰がここで話しているのだろう。
脱線した。生徒が部活動を楽しみに登校してきて、授業で頑張って放課後に活動する。多忙化してほとんどの隙間のない放課後の時間を縫って顔を出す顧問。免罪符として週末に試合や少し長い時間の活動をし、生徒が枯渇している部分を潤す。こちらもつらくなるときもあるけど、やっているうちにできなかったことができてくる。うんざりすることもある。でも、この仕事って、そういうものなんじゃなかったのかとさえ思う。生徒がひたむきに打ち込む姿に、時間と体力と気力が許す限り一緒にいてやりたいと思う。立て込んでしんどいときもある。でも少し前に進めば嬉しいし、できなければやはりしんどい。この一進一退が部活動の醍醐味で、涙で試合を終えた生徒が笑顔で引退し、やっててよかったですと言って卒業していく。下手で怒られてばっかりだけど仲間がいたから頑張れたし、もっとやってみたいから続けたい。あの試合で負けたから、もっと真面目にやればよかったと後悔したから、好きになってしまったから。これから生きていく上で生きがいややりがい、自分のいろんなところに気づかせてくれる良い機会として、部活動は長らく学校の中で行われてきたのではないか。科学が発達し、情報が入りすぎて自分が向き合っている部活動や、生徒たちに対して、果たしてこんな形でいいのか不安になる。でも目の前に一生懸命頑張る子たちがいるから、少しでも力になってやりたい。
ただ昔より責任は重くなり、周囲の目も厳しい。外に出せば良い、時間を減らせばいい、やり方を見直せ。外に出せば外との調整で手を取られ、時間を減らせば自ずと中身を濃くせざるを得なくなり、やり方を見直そうとも良きモデルがいない。いたずらに外国のメソッドや海外の例が取り沙汰される。こんなことを眼前に曝されて、意気揚々と部活動指導に向かっていけるこれからの世代はどれくらいいるのだろうか。
だからこそ、今までの良さをもう一度見直し、学校がいま出来得る部活動の形を必死に考える時期ではないのだろうか。黙っていては下手に剪定された植木みたくなる。剪定するのは僕たちでなくてもいい。ただ「そこはダメだ」「こうしたほうが絶対にいい」と立ち会う人が必要だ。
声を上げ始めている新しいサイレントマジョリティの声を形にして、議論の俎上にあげていく。ほんの微力に過ぎないけど、そんな仕事に関わっていきたい。

2018年1月4日木曜日

「部活動改革の本丸は何か?」

僕は違うことを考えている。部活動は絶対に学校には必要だ。ただ、形は変わってしまってもいい。
部活動を完全に外に出すことは外の人はきっとそう言う。その上、しんどい思いをしている現場の先生もそれに賛同する。ここに異論はないし、当然の摂理だとも思う。
僕は15年ほど公立の中学校で働いているけど、良くも悪くも部活動の教育効果は大きいのを見てきた。もちろん、顧問の暴走や暴挙も。それと部活動をめぐる時代遅れの見方も。僕はこちらのほうが問題だと感じていて、そこに関する発信をしていくのが自分の立場なのだと最近わかるようになってきた。Twitterの訳のわからん連中に躍起にならず、正々堂々と自分の思っていることを話していきたい。
部活動のシステムに瑕疵(と言うべきか制度疲労と言うべきかわからない)があるのはもう隠せない。でも、無償でその競技や技術に触れられることは今までたくさんの生徒を育ててきたはずだ。加えて、一つの居場所として機能しているし、勉強の場面ではなかなか自分の力を活かせない生徒が良さを発露できる場としても。その生徒に関われる先生が多かったほうが多様な角度で生徒を見ることもできるし、他の学年であれば違う立ち位置だからこその声かけもできる。
僕は若い先生が「こうしなければならない」というものが、勝利至上であったり、顧問の機嫌で生徒に負担をより強いたりと、モデルケースにそろそろ時代遅れなものであることが問題だと思っている。「あいつはこれくらいやってもいい」とか勝手な思い込みで顧問が無茶をさせる。それをおもしろがって、違う学校の先生が自分のチームでも同じように生徒に強いる。「シメ方が足らんのや」とか言ってアホじゃないかと思うような怒鳴り方やペナルティを与えて恐怖で生徒を縛りつける。ひいては、その姿勢こそ「部活動顧問たるもの」と思い込まされて、キャラ違いの振る舞いをして自分をよりしんどくさせていく。土日、家族やプライベートを擲つのは当然で、その場にいないことが「非常識者」のレッテルを生徒、保護者だけでなく、同僚や関係者も同様にみなす。
僕はこれが部活動をめぐる問題で一番しんどいと考えている。僕がもしできることがあるとすれば、この違和感を共有して、できる人を増やして、それを共有すること。そして、もっといいやり方を考えていくこと。そして、それをきちんとした考え方として確立していくことなのだと思う。
改革の本丸は、甲子園大会に向かう際の異常な精神性にある。ずっとこれは僕が言ってきていることだ。「異常な」というのがポイントで、なんとかも味噌も同じみたいな発想で考えないでほしい。言いたいことはそうじゃない。普通のやり方で、無理はあってもきちんと休めて、学校の行事にも参加できて、場合によったら「これで大丈夫かな」と思うような気分転換もあって。命をかけるとか、本当にそういうことを軽々しく教育の現場に持ち込んでいいのかなと思ってしまう。これも先と同じで、趣味程度でやればいいとか言う意味じゃない。そういう姿勢で臨むのはあってもいいし、公言してもいいけど、今まで放置されてきた「無茶」にブレーキをかけて、違った方法や考え方でより良い結果を目指していく。これがこれからの部活動指導の求められるスタイルなのだと思う。
そう考えると、顧問を希望性でやっていくしかない。専門外の先生がもしその部をもつことがあっても、生徒や保護者は理不尽な攻撃をしてはいけないし、僕らはそういう同僚を守らなければいかない。そのために「これはどの部の先生もやらなあかんでしょ」「先生が部活動の指導者になるならこういう考え方でいなければあかんでしょ」というものを現場で実践している人が形にしていって、その中で時代遅れなものや学校の部活動は必ずしもプロを目指すものではないという考えなどを整理、修正していって、学校が出来得る部活動を作っていくことが急務だ。
外に出したらもう戻せない。ただ、絶対に先生は楽になる。でも、もうあの教育効果は得られない。ただ、それは学校の仕事じゃないかもしれない。
今こそ侃々諤々やればいい。やったことに喧々囂々言われるのは改革の黎明期には必然だ。
今年はもっとこの種の動きがあるだろう。渦中にいながら「これで本当にいいのか」ということを考えながら見ていきたい。補欠だった僕も何かの役に立てたらうれしい。

高校版 修学旅行に行ってきた

二泊三日の修学旅行を終えた。よかった。誰も損をしない行事になった。 ちょっと昔、修学旅行委員長に推した生徒がいた。引っ込み思案、でも、力がある。彼はやりたそうだったので、僕が推した。八面六臂、気配りや決断力があった。その彼をレクレーション大会のあと、みんなでサプライズで感謝の言葉...