2016年12月17日土曜日

「最終戦は春につながる内容」

今日は門真市の学校とゲーム。大阪市から出てのゲームは個人的にとても好きで、気分転換というか小旅行のイメージ。一年だけ勤めた私学の通勤に使っていた京阪電車に揺られて学校に向かう。今年のラストゲームだった。
今はここの校長先生になられた先生と昔から縁があり、ご連絡をいただいたのがきっかけ。若い顧問の先生と試合前に野球談義と仕事のよもやま。地域が違うといろいろ勉強になる。同じ大阪でも違うところは違うし、同じところはびっくりするくらいいっしょ。妙に親近感が湧く。勝負師ならゲームの前にこんな歓談はしないかもしれない。でも僕はそういう感じでは付き合わない。いろいろ話す。
試合は1勝1敗。収穫と反省とがあった。北河内は力があるチームが多いので、こういうちょっとした遠出はありがたいチャンス。帰りがけに校長室にご挨拶にうかがい、少しだけ話す。拙著をお読みいただき、野球部の教科書も読んでくださっているとのこと。恥ずかしい反面、とてもうれしい話。また夏までにゲームの約束をして、帰路に。
僕も曲りなりに大阪市に勤めて14年。戦績はパッとしないけど、おかげさまでいろいろと素敵な先生方と知り合うことができ、チーム事情関係なしにゲームをしていただくご縁をいただいている。こういうのはどこでも誰でも言っていることだけど、ウチに限っては紛れもなく本心。自分の学校でゲームができないほどグランドは狭小(大袈裟ではなく本当にできない規模)、部員は今日も11人。僕のタイムラインに賑わしている強豪校のそれと全く様子が違う。ゲームを成立させるのもひと苦労だけど、今いる子たちに自分たちの可能性を信じてやってほしいがために活動している。
130キロ台のストレートを投げる子もいないし、絶対的なスラッガーもいない。ややもすると終学活のあとに残されて指導されてしまうような場面も当然ある。でも、そういう子たちと野球をやっていて、昔みたいにいたずらに日常生活を引っ張り出して嫌味を言わず、野球の中から反省をきちんと引き出させてから日常のことを話す。意地悪な物言いから生徒は何も得られない。残るのは恨みだけ。野球の失敗でただでさえ参っているのに、理にかなわないこじつけは不信にしかならない。野球に向き合うために自分の弱いところと結局は向き合うことになる、ということを婉曲であったり直接であったり伝えている。そうでないと、野球しか教えない野球部になる。選手である前に生徒であり、監督である前に教師である。学校の部活動はそれ以上でもそれ以下でもない。
帰り道、やはり課題のあることが起きた。これは顧問の反省でもある。生徒の失敗を呑み込んでやれない顧問は、僕はいけないと考えている。全部顧問のせいではないが、多くは大人の責任。これは自戒してもしきれない話。
ともあれ、今日で年内の試合は終了。何に向かって生徒が頑張ればいいのか。生徒といっしょに考えて、サイズにあった目標と身の丈を越えさせる自信をこの冬につける。それが理想。明日は駅伝の試走。遅刻はしないか。理由が不明な休みはないか。常にこういう技術までに行き着かないことと戦いながら僕の日常はある。明日も生徒といっしょに自分たちの頑張りを労う。顧問が一番のファンでないといけない。愚直にそんなことを考えている。

2016年12月12日月曜日

「野球離れと部活動」

最近、Facebookのタイムラインに一日に1回は「野球離れ」という話題が出る。確かに野球は人気がなくなってきた。大阪市でも部員不足が深刻な話題。かつての名門や、昨年の上位校が平気で新入部員ヒト桁。新しくスポーツをさせるときに、野球はお金がかかる。しかもポジションごとにグラブの形も違う。ボールもすぐにすり減る。これはやはり大変。
指導者の問題。怒鳴り声を駆逐していく方向で野球界はおそらく進んでいるのだろうけど、いまこんな時間でも練習をしている高校があるはず。今日だけでなく、明日も。他のスポーツでそういうことがどれくらいあるだろう。野球だけじゃないかと。丸坊主は20年後も高校球児のデフォルトなのだろうか。
高校野球の甲子園大会がいまの日本の野球のピークにあると、僕は思っている。そのあとは意地悪な言い方になるかもしれないけど、惰性。プロはたくさんお金が稼げる世界。でも競技人口も多いし、程遠い世界。高校までが誰もが輝ける可能性がある世界なのだと思う。ある地域では特定の学校がほぼ連続して甲子園に出る。他の学校でチャンスをうかがうために生まれた地域を出て野球をする。
根性、根性で教えられてきた指導者が同じ指導をこの時代でも繰り返す。先進的な技術指導を得ようとすれば、相応のお金がかかる。
ネガティブな話題ばっかり書いたけど、僕は野球が好きだ。いっしょに野球でいい思いを生徒としたい。でも、だ。学校の先生が部活動に本気で関わろうとすると当然ながら大きな齟齬をきたす。本気じゃないと周りからも白眼視。グランドに出られない日があれば正当な理由があっても罪悪感にさいなまれる。黙ってグランドに出れば良い。でも、だ。誰もができることではない。
もしスポーツの競技人口の裾野を広げる役割を学校の部活動がちょっとでも担っているなら、野球はこれからもきっと競技人口の減少は止まらないと思う。僕が尊敬する東海大学付属仰星高校のラグビー部の湯浅大智先生は、中学生もいっしょに高校生と練習をさせている。多くは聴けなかったけど、僕が知らないご苦労があろうかと思う。ただ、こういった大胆な制度の改革が必要だと思う。中学校の野球部の活動に小学生も参加する。中学生が高校に行って練習する。地域の高校の活動への見学、参加は自由。
そんなことをしてたら勝てない? 勝つために僕らは野球をやっているのか。そういう考えは否定しない。でも部活動は違っていいと思う。好きになれる環境が大人のせいで激減していっている現状をもっと真剣に考えないと。公園では球技禁止。中高の交流は禁止。プロとアマの指導の交流はご法度。どうやって野球を好きになるのか。
ウチの練習では個人練習の時間を作っている。ややもすると遊んでいるように見えるかもしれない。でも環境がない子たちがどこで野球をするのかというと、結局学校の部活動という場でしかない。顧問は会議や出張で指導に出られない。そんな日もある。でも、愛想を尽かされそうになるかもしれないと思いつつ、やっぱり練習をする。関われる時間はわずか。この現状を変えようとする人たちもいるけど、僕はまずこの環境でのベストを考えている。四の五の言わず、黙って練習やってやればいいねん。僕はもうそんな意見に全く魅力を感じないし、一切与しない。野球が好きで入ってきた子が引退したあとに野球が嫌いになって卒業するなら勝ち負けに必死になる日々もむなしい。
何のために野球部の顧問をやっているのか。野球が好きな子が減っている現状を、現状維持でしか考えていない指導者は淘汰されてもいいと思う。できることは限られているので、他の人に何を言われようがまっすぐやっていきたい。

2016年12月1日木曜日

「先生と君たちとは対等じゃない」

連日、キャプテン主導の走り込みが行われている。今日は早めに出られたので、その様子がよくわかった。休憩をとりながら、流さず取り組む。まだひ弱さが見えるところもあるが、今週はきつめの練習。
僕は声をかけるだけ。それしかできない。
ケガをしている子に早めに道具の片付けを指示したり、僕自信がグランド整備を買って出る。ブラシを引きながら声かけ。今週はそんな毎日。
今日の終わりがけ、やはり同じように整地。走り込みを終え、片付けの頃になる。…小休止してから片付けや整地に出てくると思いきや、出足が鈍い。なんとか片付けと掃除が終わる。終わりがけにやっと1年生が「先生、ブラシ代わります」と声をかけてくれた。でも、ここは指導のポイント。練習終わりのミーティングでこんな話をした。
先生が整地するのが当たり前になって、練習を終えた自分たちは頑張ったから何もしなくていい。そばにいてる手すきの者がやればいい。もしそう思っているならもう一切手伝うことはしない。先生とみんなは対等じゃない。こっちは環境を与え、メニューを考え、やらせるのが仕事。みんなはそれを受けて一生懸命取り組むのが仕事。今週はずっとみんなが頑張ってたから片付けを手伝っていたけど、そういう出方になるなら一切やらん。ギブアンドテイク。プレーで余所に認められる選手であったとしても、こちらは推薦やらお断り。そこを履き違えた生徒が上で野球されたら困るから。こっちが手伝うのが当たり前、やるのが当たり前。俺らは練習したってるねんから、という考えであれば、そんなチームが強くなるはずがない。
そもそも、生徒が自分で使った道具や場所なのだから生徒自身がすべきだ、という声もおそらくある。僕はそう思わない。自分もここにいたのだから、自分のできることをする。ウチは人数が少ないので、正直なところ人手がいる。時間がかかっても生徒にさせよ、という人がいても結構。僕とは考え方が違うのであって、否定しない。いまの時点でのベストで僕は生徒と向き合っている。それだけの話。
新採用の頃、当時の校長先生からこんなことを聞いた。「杉本さん、グランドは体育の教師にとって教室やねん。だから体育教師には特別思い入れがあるんや」と。柔道の専門でいらした校長先生は体育科。室内競技の柔道の専門家が、プロの体育教師としてこうおっしゃった。だから道具の片付け忘れや、整地が甘いときなど、忸怩たる思いになる。指導の至らなさに申し訳なくなる。こんなことも生徒に話した。
ボールを使わない時間こそ、野球部の活動の真骨頂。ボールが動く時間はみんな必死になる。そうじゃない時間に、いかに真摯に取り組めるか。僕がいつも大切にしている考え方。
生徒目線で、という言葉はややもすると迎合になる。行き過ぎた生徒理解は「過寛容」にすぎない。こういう線引は教室でもある。ただそれがグランドで行われているだけ。教師と生徒は決定的に違うのだ。

高校版 修学旅行に行ってきた

二泊三日の修学旅行を終えた。よかった。誰も損をしない行事になった。 ちょっと昔、修学旅行委員長に推した生徒がいた。引っ込み思案、でも、力がある。彼はやりたそうだったので、僕が推した。八面六臂、気配りや決断力があった。その彼をレクレーション大会のあと、みんなでサプライズで感謝の言葉...