2017年12月25日月曜日

「3年生担任と顧問」

今日は雨上がりのグランドながら、部員といっしょに野球ができた。テニスボールでロングティーをやって、一心にボールをたくさん拾って自分たちが一球でも多く打つ。高校のときにやっていたスタイルを生徒に話すとすぐ乗ってきて、それでやっていた。こういう時間も3年生の担任をやっていると、なかなかとれない。指導につけない、席を外すことが多く、どうしても任せきりの練習になる。
先日、僕のもうひとつのグループでちょっと話題になった「つけないとき、どうするか」ということが、特に3年生の担任になると常につきまとう。免罪符的に週末に練習試合をやって、あれこれ言う。実は大切なのは毎日の練習なのに、プレミア感のある練習である練習試合で生徒をうんぬんしようとする。なんとおこがましいことか。
少しでもグランドへ。部活動のことを投稿しようと思ったとき、指導につけていないことをどうやって隠そうかと「エエカッコ」しようとしたけど、実際はべったりついて指導できることが少ないのでウソを言うのをやめた。それは僕の日常ではない。
3年生の担任になったら、殊更こういう要件でつけそうにない、と丁寧に話している。任せきりのときに練習がうまくいっていなくても、それは生徒のせいではない。顧問がうまくやりくりして生徒についてやればいい。つけない理由を仕事のせいにしない。こんな高尚な理論もあるだろうけど、担任をもった生徒が相談にきたりイレギュラーで懇談をすることになったりと、一生懸命向き合っての結果であれば、僕はもうここにいちいちストレスを感じないでいようと思っている。
これから進路指導が本格化する。関われる時間を丁寧に。ダメなときもそれを呑み込んで。いいときだけいい顔するのじゃなくて、うまくいかないときに上機嫌でいていっしょにやり方やあり方を考える。3年生担任のときの極意だと僕は思っている。

2017年12月3日日曜日

「部活動指導を考える先生Lab.」より

今日は先日作ったFacebookのグループ「部活動指導を考える先生Lab.」に投稿したものを転載します。

今日は合同チームで公式戦初勝利でした。今日の気づき。
勝って、選手の不満を言う。こういう人が多い。僕の場合、選手である場面の不満は過不足あってはならないと思う。良い加減がいい。僕が気にしたいのは、生徒としての姿。今日もたくさん気になることがあった。
集合に遅刻。今日は午前中は学校で取り組みで、登校だったので一時帰宅。思うに、帰って油断したのだろう。
試合後、ミーティングをしているチームがあるのに、余韻からか片付けや着替えが散漫。何のための勝ち試合なのかと思う。
言葉遊びは好きじゃないが、勝っても負けても「価値試合」をしないといけない。負けて学ぶのは当たり前、勝って兜の緒を締める。いたずらに遠慮せよとは言わない。これはマナーやモラルの範囲。勝ったときでないとできない指導がある。選手である姿は日常の生徒の姿に根ざしたもの。それがあるから僕らは部活動をやり続けるのだと思うし、このように学校での部活動の価値を見出そうとするのだと思う。
やりすぎは顧問の自己満足。試合後の「おめでとう!」にどう反応するか。生徒の姿は僕の指導の鏡なのだ。

2017年11月23日木曜日

「『野球部だから』というおごり」

最近、部活動指導について考えるFacebookグループを起ち上げた。人数は少ないものの、かなり深い。コメントを交わすたびに、特に野球部の顧問には「野球たるスポーツに関わる特権」を感じる。野球だからということで知らず知らず自分に縛りをかけて、それが生徒をしんどくしているのかもしれない。このグループの先生たちは自分の指導に絶えず疑いをもっていて、これでいいのかなと思いながら日々過ごしている。その姿に大いに共感する。
先日、ある先生から聞いた。選手起用に関して、保護者がどうも納得いっていない。どうやら、我が子が試合に出られないことが大いに不満であるというような話だった。よく聞く話。
選手起用について、技術の巧拙だけで判断していいのなら実に容易い。肩が強い、足が速い、打撃がいい、守備がうまい。でも、授業がいい加減だったり、学年の先生に迷惑をかけたり、警察にお世話になったり、そういう生徒が試合で活き活きとプレーする。見方によれば、それがその子の長所であり、長い目で見てやる必要がある。でも、学校というところは、そういうことをきちんとやった上で日常があるのだ、という指導をする。学校の部活動は、ややもすれば上手な選手が試合に出られない。下手でも試合で活躍できる。変な世界。ただ、それは学校の部活動の意義と直結していて、そこがウヤムヤになるなら存在意義はないと言っていい。
ここは「野球部だからちゃんと指導しないといけない」ということではない。どの部でもすべき最優先事項のはずだ。ここは我々が是が非でも維持すべきラインであり、ここを侵すような事象は断固、毅然と対処していくべきと考える。
もうちょっと言えば、試合に出してやれないということに忸怩たる思いでその子を見、どうにかして周囲に認められる姿に変容できるように働きかけられないとか悶々とするのが顧問の務めではないだろうか。
一方で、野球部特有の変な風潮もある。プロ野球、高校野球に通じていく指導をすることこそがあるべき姿、指導である。坊主頭、休みなし、浮世離れした珍妙なあいさつ、掛け声。それはそれであっても良い世界だが、多様性が担保されない世界だと勘違いされるとたちまち生徒は苦しくなる。そこへの視野と、理想の姿を行き来できる指導こそ、特に野球部顧問には求められているのではないかと、ここ数日で感じている。
命をかけろとか、腕がちぎれても投げろとか、もうそういうのは退場していただきたい。学校の先生がすべき指導は、人並みの日常を当たり前に過ごさせること。プラスアルファに部活動がある。そういうことをつらつらと考える数日だった。

2017年10月22日日曜日

「自分で考えることができる選手」

ある方の勧めで、これを観た。とても良い番組だった。自分で考えることのできる選手育成について、多く時間が割かれていた。あわせて、人格がすぐれていないと大成しないということも強調されていた。後者は言うまでもないが、中学校という現場、しかも学校の部活動で「自分で考えることができる選手」を育てることとはどういうことかを観ながら考えていた。

番組の中で、履正社のノックを引き合いに自分で考えることの大切さ、自主性の大事さを紹介していた。NHK解説者の小早川氏が「自主的にできるレベルまでもってくるのが難しい」という話をされていた。やり方がわからない、基本的な動作がわからない生徒に「さあやりなさい」と言っても何をすればいいかわからない。中学校の部活動で専門外の部をもった先生はきっとここに悩み、うまくいかなくなっていくのだろう。やがて求心力がなくなり、生徒が顧問を信頼しなくなり、保護者も冷めていく、という図式。実によくわかる。

自分たちで、という言葉はとてもウケが良い。トップダウンではなく、生徒を大切にしているふうに映る。ただ、実際にこれをやりきるのは相当な忍耐力が必要だ。ウチの野球部も先日、これで全体指導した。やるべき練習を「わかってほしいな」と思いつつ、結局それに着手する子がいなかった。その日は練習終わりのミーティングで話した。実はこの時点ですでに僕の指導がまずかったと感じている。気づかせる指導ができていないし、考える素材の提供が乏しかったのだろう。小早川氏の発言が一気にこの指導場面を想起させた。

あふれるほどの素材からそこに行き着かせる。これがどれほど難しいか。これをやりなさい、と言うときもある。でもそれなら言い続けないといけないし、自分で気づくクセがつかない。ここは完全に生徒といっしょに顧問も成長しないとけない点だと思う。そういう意味で練習試合や公式戦というのは恰好の素材。僕はゲーム後の課題設定、提供は生徒といっしょに確認しながらけっこう細かくする。要はそれが日常の練習に反映されていくのかどうか、というのはその生徒の資質や組織の力。ここが目下の課題だ。

特に中学校の部活動はつけないときもある。それを嫌って外のチームにいく生徒もいる。ここは賛否はおいて、現状でよりよい活動にしていくためには自主性をいかに日常的に伸長していくかが大切だ。語弊を恐れず言えば、下手な子には徹底して教えないと技術が備わらない。気づかない子には徹底的に壁にぶち当たらせ、そのショックが必要。それをたえずできる環境づくりとしての、教員の仕事のあり方が求められる。こういう部分を研究者や外の組織といっしょに考えていくといいと思う。

プロフェッショナルの選手育成の場としての部活動もある。ただ、多くのそうではない普通の部活動をもっと生徒のものにしていくのであれば、思い切った考え方の転換が求められる。だからこそ、学校の先生は日常生活の大切さを話していかねばならない。教師としてのプロフェッショナルの指導を部活動で。そんなことを考えた。

2017年10月20日金曜日

「背番号の意味」

今日、背番号を渡した。初めて一桁をもらった生徒もいて、破顔一笑だった。僕も現役のときに、一度だけ一桁をもらったことがある。
中学生の頃、一塁手だった僕は、2年生になって自分たちのチームになったときに3番をもらった。出たり出なかったりだったので、正直複雑な気持ちだった。いま考えても、なぜあのときに一桁をもらえたのかわからない。
裏話がある。二人の顧問の先生の話を僕は聴いていた。
「杉本に3番あげようと思ってるねん」「そうですか、いいですね」「それでゲームには◯◯を出そうかなって」「それ僕も同じこと思っていました」かくして、僕は3番をもらったもののずっとベンチだった。何の意味をもった3番だったのだろう。
背番号が、ある意味の論功行賞の役割をするのはわかる。高校野球でも僕と同じような意味合いで背番号をもらった選手はきっといる。
僕は選手目線の背番号の抜擢をいつも考える。二桁は二次的な要素が絡まることもある。でも、一桁は絶対レギュラーであるべきだ。特に中学生に婉曲な、ドラマ的な要素はおおそよ汲み取ることは難しい。これを選手が無能だとかそんな議論にならないことは聡明な方だとわかる。額面通りの抜擢こそが愛情だと切に思う。選手として2番手、3番手なら、そう抜擢することこそ愛なのではないか。言い切ってもらえることで救われることもあると僕は思う。
一桁は誇り。重みはチームごとに違うかもしれない。でも、そのチームおいての一桁は唯一無二だ。胸を張ってゲームに臨んでほしい。そのチームに応じたサイズのドラマが存在するのだ。

2017年9月30日土曜日

「幽霊部員について」

幽霊部員という言葉は死語かもしれない。いずれ言葉が変わっていくだろう、この幽霊部員だが、どこの学校でも必ずいる。この幽霊部員をめぐってトラブルがたえない。拙著にも提案したが、放置するからトラブルになる。積極的に関わるのが適切な、しかるべき指導だと考える。
たとえば体育大会のクラブ行進や卒業アルバムの撮影などで、気まずそうにしている生徒を見たことはないだろうか。全然部活に行っていないから自分の身の処し方がわからない。もうひとつ言うと、顧問もそれをそのままにしている。待っている、ということになるのかもしれないが、生徒から顧問に歩み寄ってくることはまずありえない。それなのに、放置してしまっているのが誤解のもとであるし、保護者からしたら「同じ学校にいててなぜ声をかけてくれないか」という話になる。ましてや同じ学年だと特にそうなる。
ここで保護者から説明を求められても、言い訳ととられるだけ。僕が新任の頃、保護者への対処が当日なら「説明」、次の日になると「言い訳」となると教わった。言葉遊びかもしれないが、教育は「今日行く」ことだ、という話。この図式にあてはめていくと、長く部活に参加していない生徒に関わらないのは顧問の仕事としては物足りないものだと思う。
僕は野球部で幽霊部員を長い時間かかえた経験がない。僕自身がもやもやするので、そうなりそうならきちんと話し合ってやめさせた。勝手にいなくなった子にも声をかけてお互い気まずい時間を過ごさなくていいようにした。やんちゃな生徒が縛りに耐えられず、部活を続けられないことがある。こういうときもこっちから関わって正式に退部させてきた。もっと若い頃はこのあたりがあいまいで悶々とした時間を過ごしたことがある。僕もそうだったし、生徒もきっと心地悪かったと思う。気持ちよく生徒には登校させてやりたい。
外部のスポーツチームなら幽霊部員は実質存在しえない。対価を払って指導を受ける以上、お金を払っているのに来ない子を放置することはありえないからだ。無償の外部組織であるなら、ひょっとしたらありえる話かもしれないが、指導者が学校関係者であければそれぞれのアプローチになるはずだ。
でもこれが学校の部活動なら大いにありうる。新任の先生や若い先生がこういう生徒を放置してしまうことがあるが、周りや学年の先生が提言して正式に手続きをさせてやらなければならない。いずれ学校への不信感になり、そのひずみはどこかで日々の業務に間違いなく跳ね返ってくる。「こういうときは自分からきちんと話にくるべきだ」というのは顧問の瑕疵。そういうことができる生徒が幽霊部員になるはずがない。何か後ろめたいところがあって部活に足が進まなくなる。保護者が知らないケースもある。こういう動きこそ、学校の部活動ならではの動きだと言える。
こういった、技術指導に行きつくまでの丁寧な指導のあり方がもっと研究されていいと思う。顧問の独自採算にせず、担任業務と同等に学年や学校あげてきちんと取り組んでいくべきだ。現場と研究の密接な連携が望まれる。部活動経営の一要素の事案だと僕は考える。

2017年9月27日水曜日

「個人練習は順調さのバロメータ」

ミスは嫌だ。試合で「また同じミスを」とか「これは準備してなかったな」とか、そういうことを言い出したら野球はどれだけ時間があっても足りない。でも、任せる。
ウチの野球部は現在5人。それでも練習のラストには30分ほどの「個人練習」を課している。自主練ではない。自主練は、やってもやらなくてもいいという読み方もできる。違う。枠は与える。その時間内に何をやってもいいというもの。
今日のラスト。ある子はテニスボールで実践打撃。横でピッチング。向こうで走り込み。僕はバッティングの守備。5人がそれぞれやっている。生徒がやりたいと思う練習が、こっちのやってほしい練習になるのが理想。提案すればきっとやる。でも、なまじ提案はしない。試合のあとに「こういう練習が必要やったな」と、染み込みやすいタイミングで話す。野球ノートにはそのような振り返りの文字が目立つ。で、それが週の練習に反映されていたら◎。でもこれがなかなかうまくいかない。アドバイス直後はやる。でも、週の中、終わりになると結局自分のやりたい練習になってしまう。切実さが忘れられ、ぼんやりと自分のやりたいことにしか目がいかなくなる。こうなると僕は自分の声かけがまだまだだと感じる。
個人練習の様子は、チームの力のバロメータ。うまくいっているときは各々、やるべきことに向き合っている。ある子が言っていた。小学校時代はいろいろ教えてもらったけど、中学は何をするか考えないといけない、と。だからと言って、小学校時代の練習を否定しない。それのおかげで、いまのパフォーマンスがある。理想は、技術が未熟な子にできる子が教えてやっている風景であり、未熟な子が上手い子に質問できるような環境。もっと上積みを望むときは難しいことをどんどん提案し挑戦させる。やってみよかな、と向けるのが僕の仕事。
僕がいないとできない生徒になってほしくない。でも現実はそううまくいかない。それをわかった上で全部任せるときもある。僕は何もしていないように見える。これで力がついていけば。まだまだ途上。人間力とか、命を懸けるとか、否定はしないけど、生徒の日常の文脈に落とし込めているか、指導者は敏感であるのか。勝てば官軍。敵はその考え方。それは学校にはなじまないのです。

2017年9月15日金曜日

「他学年のチーム」

これも自分の問題意識。僕の実感だが、自分の学年のチームはまず部員数が多い。それと、思い入れが違う。加えて、直接見ているという強みで生徒と関われる。何年に一回かだけど、自分の学年のチームはまた違う気持ちで関わる。これはどう取り繕ってもウソはつけない。
一方で、他学年がメインとなったチームは、指導はいつもどおりすれど、どこまで染み込んでいるのか実感しづらい。常勝チームならいい。伝統が生徒を引っ張ってくれるから。伝統も実績もない普通のチームで、他学年の子たちといっしょに部活動をしていく難しさはあまり言語化されていない。明らかに顧問の接し方、関わり方が違う。
他学年の子たちと心理的な距離を縮めようとするなら、授業に行くのが一番良い。見学ではなく、授業をしに行く。でもこれは無理な話。そもそも、部活動がメインにある教師の動きだ。違う。日常の授業や取り組みがあって、かたわらに部活動がある。ここの認識がおかしい人が、現場には多い。自分の部に所属する生徒の全部を知っている気でいる。あまり言いたくないけど、年長の先生にこの傾向は強い。生徒は後光で動いている。それに気づいていない。生徒は目の前では常に従順。そうではないドロドロとした部分に目を向けて、曝け出させて勝負している先生に僕は心から尊敬する。威厳なんかいらない。生徒が「この先生についていけば大丈夫」と思うには、怒声もいらないし、膨大な時間が必要なわけでもない。すーっと、生徒の心に迫る切り込み方が出来ているか。僕はここが絶対的に足りていない。
生徒をわかっているというのは明らかに教師のおごりだ。わかろうとすることが大切なのに、わかった気でいて失敗、ミス、エラーがあったら現象面だけに目を向け指導する。それでは生徒は後ろを向いてベロを出している。出されて悔しい、というのは思い上がりで、きっとそんなもんだと思う。これだけ部活動以外の刺激がある生活のなかで、没頭させようとするには怒声でも、威厳でも、膨大な時間でもない。
生徒が向き合いたいと思える環境をつくること。自分の学年のようにかわいがる。他学年だからわからない、というのはおごりでもあり、真理でもある。そこを自覚してから初めて、生徒の心に迫れる指導ができるのだ。

「日常生活」という言葉が形骸化していないか?

日常生活(学校や家庭での態度)を大切にしない者は上達しない。よくこんな発言を目にする。でも本当にそんなことを思って指導している部活動の顧問はどれくらいいるのだろう。競技の技術を高めるために日常生活を利用しているのではないか。学校で行う活動なのに、それだけを目的とするのは非常に違和感がある。日常生活を大切に、という言葉が安請け合いされていて、本当にそんなことを考えているのか、と疑問に思うことがある。顧問なら誰でも言える言葉だし、言っている言葉だ。僕自身、本当に日常生活を大切にしたらうまくなるのか、無理にこじつけていないだろうかといつも疑問を持ちながらやっている。自分のやっていることが本当に子どもたちにプラスになっているのか、ということ。Facebookのいいね!みたいに反射的にこの言葉に飛びついて使っているだけなら、生徒の根っこにまで毎日の声かけは届かない。僕が言いたいことは、今のところやっぱり「日常生活を大切にしない者は上達しない」ということになるのだけど、確実に違う言葉を必要としている。それがまたしっくりくる言葉が思い当たらないし、見つかっていない。ここが本当に苦しくて、練習やら試合やらをやっている。怒声の中プレーし、顧問のカタルシスに付き合わされる生徒たち。言葉では日常生活とか言いながら、技術の巧拙だけで活躍の場面を判断される。もっと違う言葉を。出てこないなら出てくるまで考えるしかない。何件か「野球部の教科書」の問い合わせをいただいて、すぐに返信。この苦悶まで届けられたらいいなと思いながら、ファイルを届けている。

2017年9月12日火曜日

「夏休み明けの生徒の姿とは」

新チームで過ごした夏休みが終わり、2学期の日常が始まると、途端に魔法が切れたように生徒がうまくいかなくなることがある。特にしんどい学校などはそうだ。
夏休みは顧問の指導のもと、張り詰めた時間を過ごす。曲がりなりにも、好きなことに触れている時間で一日が終わる。確かに体力的にはしんどい。でも試合に出たい、勝ちたい、うまくなりたいという気持ちが徐々に大きくなり、いつのまにか2学期になる。そして2学期になると、授業、友人、係の仕事、清掃、取り組みと、生徒の日常に戻っていき、やがて部活動が生徒の日常の一部であったことを思いだす。さっきまではそれが日常だったのに。ここに意識の歪みができ、思うように授業や学年の動きに溶け込んでいけない。部活にのみ打ち込んでいた純粋性が日々のよもやまに薄められ、夏休み中の頑張り、踏ん張りとは違う姿になる。よろしくない友人と交友がある生徒は、やはりこういう子たちとまたつるむようになるので、見る陰もなくなる。
2年生の夏を終えたのに、なぜ急速に意欲を失っていくのか。憧れていた恒常的に試合に出るということが叶えられ、技術的なところの物足りなさに無関心になり、日常の遊びのほうがおもしろくなってしまったり、楽な方に流れたりする。そういう子がいても全然珍しいものではない。
「夏休みは一生懸命やってたんですけどね」と漏れ聞こえる声。そんなの当たり前の話で、それしかない生活だからそうなっていたまでの話。僕は性悪説を元来とらないが、生徒に関しては「そういうもの」と思っている。善とか悪とかじゃなくて、そういうもの。どれだけいい子でも、2学期のはじめのうちはしんどいのだ。
こういうときにどうやってガスを抜いてやるのか。猛スピードで駆け抜けた夏はもう終わった。どうしても日本のスポーツは量で活動の善悪を捉えがちだ。でも、日常の一部に戻った彼らの生活のなかで、部活動に純粋に打ち込んでいってもらうためには矛盾した言い方になるが、一気に環境を取り上げることだと思う。延々とあった時間をよりシビアに切る。秋は日が短い。雨も多い。そんな日にいたずらにだらだらとしない。土日、休みを入れるのも適切。生徒も疲れるのだ。
教師にとっても9月は正念場。落ち着いた学校、学級でも、荒れる要素はそこかしこにある。現象が変わり、空気が変わってきたらそれを生徒に伝えることが大切。ここで教師が疲れるとややもすると大声で現象を止めてしまい、傷口にガムテープを貼るような処置になる。「そういうもの」と僕は思っているので、9月は声をかける前に、みる。クラスも野球部も、今までとは違う姿になっている。その差異は何か。だいたい、こうなってほしいというイメージとは違っているもの。だからこそ、みる。
最近はそんなふうに思って、生徒のなかにいる。

2017年9月7日木曜日

中学野球太郎

「中学野球太郎」に記事を掲載していただきました。「野球部の教科書」を取り上げてもらっています。ありがとうございました。




2017年9月3日日曜日

「マスク越しのゲーム」

今日も練習試合。昨日と今日と、プレートアンパイア(PL)を務める。特に今日は2試合。涼しいから大したことなかった。
良いアンパイアは良い選手を育てる、と審判の偉い先生に教えていただいたことがある。いっこうに僕はうまくならないけど、生徒にはうまくなってほしい。PLをやりながらいろんなことを生徒に話す。まずキャッチャー。バッターとの距離が近すぎてケガをするかもしれない。「近いで。もうちょっと後ろおり(注:いなさい)」バッターに「今のは外の球やから逆方向に打たないと」など、敵味方関係なくぶつぶつ話す。これがなかなかおもしろい。
僕は合同チームで部長扱いなので、生徒への主な声かけは監督先生に任せている。僕は後方支援といったところ。今日も監督先生が2試合目PLにいくということだったけど、僕が2試合目もいくと申し出た。PLしながらでも生徒に声をかけられると思ったので。
今日の相手校は同じブロックのチーム。こちらにも頑張ってほしい。監督先生や生徒にこっちにも声をかける。みんなうまくなるならそれが一番。
審判の練習にもなるし、目の前で生徒の様子がわかるから審判をしながらでもおもしろい。合同チームは大人が多いからこういう立ち位置も悪くない。このあたりはまたどこかでまとめたい。
ベンチの様子も僕には勉強の材料。生徒より僕のほうが良い経験させてもらっているとさえ思う。マスク越しでも指導はできるみたいです。

2017年8月31日木曜日

「キャプテンシー」

教育相談を終え、学年の取り組みを終えてグランドに行った。ティーをやっている途中だったが、キャプテンに様子をきくと「遊んでた奴がおるんで、もう切ります」と言う。ウチは顧問が不在のとき、ふざけたり雰囲気が悪くなってきたりしたら練習を終えてもいいとキャプテンに言っている。このチームになって初だった。
当事者に聞けば、ティーの投げ手も打ち手も未熟なプレーをしていたらしく、いわく「普通にやっていた」と。たぶん外部の野球チームなら起こり得ないトラブル。ここは状況をよく聴いて把握していくしかない。聴いた。ある程度はわかった。
僕はいつも「そう見えたら、そうだ」と話している。違います、というのもわかる。でも、そう見えないようにする努力はあったのだろうか。そんな子もいるじゃないか。そんなことわかってるんです。発言を普遍的に捉えられると困惑するが、ここはわかってほしい。そんなものを割り引いた上で「そう見えたら、そうだ」という話。
ミーティングをする頃にはおおよそ話はわかっていたので、おさえの話をした。5人でもサボる子はいるかもしれない。でもこの人数ではたちまち大迷惑になるし、自分たちがどう見られているかということに思いを馳せないといけない。手立てがあったはず。投げる方も相手が打ちやすいところに投げる努力をしなければならないし、打つ方も事細かに注文をつけたらいい。そういう意味でのサボりがキャプテンにはそう映ったのだと話した。キャプテンにもあとから話す。見方と見え方の問題は教室でも起こる。とても難しい問題。
技術的に未熟な生徒がいるのはどこもそう。でもそれを成立させようと思うのなら、心がけは大切。何よりそばにいてられたらいいが、現状はそこに注文はつけにくい。キャプテンは必死にキャプテンになろうとしている。視点を与えるのもれっきとした技術指導だと思う。

2017年8月28日月曜日

「ごくありふれた、本当の日常の1ページ」

今日から午後は相談活動ウィーク。こんなときに限って違う指導が入る。相談活動もある程度で済ませ、グランドへ。4人しかいないからちょっとでも居てやろうと思って。終わったら5時近く。この時間から何もできないので退勤しようと思って、少しだけやる。で、この少しがやり始めると終わらない。定時退勤かー。部員不足に悩む部活動を子どもたちだけで成立させる仕組みがあれば。いま模索してるけど、こんな人数だと僕らがいることが一番なのかなと思ってしまう。働き方改革が声高にやられてる中、余計に他の人と差を感じてつらくなる人もいるのだろうと思う。今日は部活動の時間が長すぎた。改善できるはず。この仕組み作りに楽しさを感じてしまうのは、専門の部だからだろうな。手強いけどこのあたり考えていくのがおもしろい。

2017年8月25日金曜日

「合同チームの夏」

今年のウチの新チームは5人。夏休み、この5人が毎日そろうかというとそうでもない。少ないなら少ないなりの中学生なりの毎日がある。でも僕にとっては自分の転機になるかもしれないくらい、日々の指導がおもしろい。
はじめはよそよそしかった生徒たちも、知らないうちに下の名前で呼んでいる。たぶん僕が思っている以上にたくさんの情報交換をしているのだろう。良くも悪くもあっという間にチームになっていった。
チーム結成には今回縛りがあって、同じブロックでないといけないということになった。ウチは大阪市のど真ん中にあるので、自転車の移動がどうも苦手。距離のわりに信号が多いのでどうしても電車移動になる。交通費もかかる。地域によって事情がややこしい。
でも今回、大阪市の新人戦で8チームの合同チームがある。2チームではなくもっと多いチームで結成しているところもある。試合はいい。日常の練習がきっとどの学校も大変だろうと想像できる。ウチもそうだ。
合同チームになると、ヨソでは補欠になってしまうような1年生の子も試合に出る。上手いとかそうじゃないとか関係ない。いるか、いないか。いなければゲームもできない。指導者はやっとここで生徒がいるから日常の活動ができていると実感する。
指導者の相性もそう。ウチは僕より若い熱心な先生といっしょになった。実績も十分。子どもたちにたくさんのことを教えてくれる。勉強になる。
子どもの話。やっぱり失敗するもの。そこで違う学校の子でもしっかり叱ってやれるようになれば、チームとしてはじめて独り立ちしたと言える。先生によるかもしれない。叱ってもらえる生徒は幸せだと思う。やっとそこでチームとして機能していくのだとも。
今日、ウチのチームでは平日の練習をどうやってやっていくか、生徒だけで考えさせた。できるだけ具体的に。僕は会議や指導があったので、あとから聴くと。自分たちなりにたくさん考えていたようだ。ここに関してはまた違う機会に書きたい。合同といいつつ、合同じゃない時間のほうが多い。そこの過ごし方が今回のチームの課題かなと思う。
1人でもいれば部活動として成り立つ。とても良い経験をさせてもらっている。真剣に、次の学校では野球以外の部をもってみたい。合同チームの指導は1+1=2ではないと実感してから始まる。

2017年8月20日日曜日

システムではなく、目の前の生徒とどう関わるか

「部活動指導スタートブック」は、これから先生になる人、なりたい人、なりたての人をイメージして書いた。これは今のシステムが続いていくことを前提にしている。一方で、部活動が学校の外の活動になっていくかもしれないという動きもある。僕はこの両方の動きについて、特に前者について関心がある。後者は僕には空中戦のイメージがあり、現場の声がどこまで反映されていくのか計り知れない。だとすれば、現行のシステムでいかに生徒が積極的に、主体的に参加しようと思えるようにしていくかについて考えたほうが有益だと考えている。もし良い実践ができれば、どこかそれから普遍的な理論が抽出できれば、今後の部活動指導の役に立つかもしれないと。それが、特にこんないろいろとニーズがある時代に、部活動の顧問を務める人とそれを共有できればと心底思っている。制度論で部活動の是非が話題になることが多いが、きっとあるはずの部活動指導の普遍的な指導法や考え方などを現場から発信していくことで、今日的な部活動のあり方がわかってくるはずだ。制度論について、実は僕はあまり興味がない。関心は確かにあるが、抜本的な改革がこの先なされると確実に考えているので、そのときのために自分ができるスタンスをしっかりと持っておくほうが僕は大切だと考えている。そうは言うものの、いつか不必要になるかもしれないことを真剣に考える必要があるのか、と正直思うフシがある。これが、いつも部活動の発信をしながらのジレンマだった。いつも練習試合をしたときなど、僕が関心のあるテーマでいろいろと相手の先生と話をする。僕より若い人がすでに多く現場にいるのでそのみなさんに聴くと、学校の中でやっている活動ということがあまり意識されていないように感じる。(これを言い出すとまた制度論なるけど、そういうことはわかった上で)。関わる時間について、関わり方について、組織づくりについて、保護者との連携について。ブラックどうのの話は僕が本を書いているときはここまで声高になっていなかった。僕は自分が書いた本で「こういう考え方があるとは知りませんでした」と、言ってくださる方がいる現状が問題だと思っていた。あの本は教師になって10年ほどのまだまだ薄い実践から発信したものなので、今後も補完する必要がある。制度論が空中でやられている一方で、僕は生徒たちとどう向き合うのか、ということをメインにずっと考えていきたいと思っている。勝ち負けがすべての世界の部活動もきっとある。僕みたいに地面をずり這いしながらどこにでもあるような部活動の世界もある。僕にとって部活動は生徒といっしょに過ごす学校の活動のうちにある。そうじゃない、と考えている人たちや、やり方が全くわからない人たちと、どの部分を共有していくのか、それがこの後に必要になってくる視点かと思う。
言いたいことがうまく言えないな。また思い立ったら書きます。教室と同じと言いながら違う部分ももちろんあるし、教室の延長と思うほうがいい部分もある。頭のバケツがひっくり返った状態でひとまずまとめた拙著。まだひっくり返って拾えていないことと、発信したからまた増えたこと。いらなくなるかもしれないけど、僕はここを愚直にやっていく。

2017年8月18日金曜日

「ブラック部活動」私見

ブラック部活動の話題。正直なところ、最近の騒ぎに辟易としている。それだけ苦しんでいる人がいるのに、それに寄りかからねばならないシステムははっきり言って破綻している。部活未亡人の話。子どもが幼いこの時期に一緒にいられないジレンマ、というより矛盾は僕はおかしいと思う。ベテラン先生が美談めいた言いぶりで昔話をするのも、僕にはどうでもいい話。あなたはそうだけど僕は、僕たちの世代はそうじゃないと言いたい。時代が違うのに昔のやり方を続ける愚策。ここにどうして手を入れないのか。中学校の先生の仕事から部活動の仕事がなくなれば、語弊を恐れず言うと確実に生徒へのアプローチの仕方が変わる。教科も、学級も。素晴らしい人材が部活動という慣習に絡め取られて、当たり前のようにそのシステムに順応せざるを得ない現状。ベテランの先生は若い頃経験したからもう従事しなくていいのか。面倒なあれこれを若手に任せて「私の若い頃はそうだった」という時代ではすでになくなっている。では、ベテランにもリスクシェアすべきか。僕はそう思う。その分、若手はそれに倣って自分の実践を磨いていかないといけない。もうこれが古いというのなら、潔く中学校や高校の学校現場は部活動を手放すべきだ。高校野球を観ていると、そんなこと口が裂けても言えない。試合の後、クールダウンしている選手を急がせて、大会を回そうとする役員。わかるのだけれど、誰があっての大会なのか考えるといい。興行なら乗らない。教育ならやり方を変えよ。全員がプロフェッショナルを目指すという間違った空気感は是非とも思い直してほしい。教育活動なのか、そうじゃないのか。幼い子が涙しながらコーチの言うことを聞いてる映像。そこらへんの混同を見分けられる社会でないのなら、学校の部活動はますますしんどくなる。現状を知ってもらうための必死の訴え。滑稽なポージングさえある。あかんあかんと言いながら前例踏襲を続けるなら、やめてしまえばいいのにと思う。「子どものために」を我田引水するなかれ。

2017年8月6日日曜日

「3B合同練習会」〜「選手である前に生徒である」という確認〜


今日は3ブロックの合同練習会だった。3Bはこういう形の練習会は今までなくて、やっと実現にいたった。昨日は4Bの練習会で、その講師として参加。4Bはもう決まった形があり、こちらが声が出てしまいそうなほどの完成度。連帯感を高めるためにいろんなしかけがあった。
さて、ウチの練習会もまずは講話。大阪府の夏の大会でベスト4まで勝ち進んだ大正西中の顧問の先生から「やりきることの大切さ」を話してもらう。目立った選手がいない中での快進撃は、チーム全体で目立った存在になっていった印象だった。K先生の話は昨日聞いていたこともあり、こういう日常の延長線上にある話はいいなと思って聴いていた。
ノック、紅白戦と一連のプログラムを終えて、ブロック委員として最後にまとめの話をさせてもらった。練習会の実施要項にも謳った「選手である前に生徒である」ということを再確認しよう、という話。好天なのにボールがピッチャーがワンバウンドボールを投げたらすぐにボールチェンジを要求。こちらにほとんど目もくれず、ボールを差し出す。プロ野球でよく見る光景。「ふざけるな」ということ。ボールをこねて返球すればいいし、仮にチェンジをしてほしいときは「変えてください」と言うべきで。君たちは選手である前に生徒。「させてもらっている」という意識なしで、日常の活動はない。
これは指導者もしかり。生徒を選手として見すぎて、恫喝にも近い声をかけたり、理不尽な練習をさせる。教室ではそんなことをしてないはずで。おこがましくも、大人もこういう認識を強くもっていきましょうと、終わりの打ち合わせで話した。ややこしい時代になり、制度のどうのこうのでガンジガラメになっている現状だからこそ、生徒を指導する一教師として誠実に向き合うのが大切なのだと思う。仲間意識(ややもすると特権意識なのかもしれない)を強く持ちすぎて排他的な世界にしてはいけない。いい練習会になって良かった。

2017年8月1日火曜日

「5人との夏」


合同チームになって数日。おもしろくて悔しい毎日を過ごしている。数が少ないから染み付いている慣習を見直そうと、いろいろと口うるさく言っている。今日も練習試合。今日も敗戦。いまのところ3戦3敗。前途は厳しい。でも、一から積み上げる楽しさを実感している。久しぶりの感覚。新チームはこうでないといけない。
明日も練習試合。僕は補充学習があるので、途中参加の予定。うまくいくことといかないこと。必死にいろいろ言っていながら、無理や無茶を通そうとしていないか、やはり気になる。厳しい声は何のために。強いチームと今のチームを「いたずらに」比較して生徒の成長を阻んでいないか。野球のせいで埋もれてしまっている「生徒が本来果たすべき生徒としての一人前」をちゃんと目指させているのか。日常のあり方を指導していく延長線上に野球がある。ここを忘れてはいけない。
合同チームは僕は裏方にいる。もっと下がってもいいとさえ思う。言いたいことを生徒のサイズに換言したり、あえてストレートにぶつけたり。新チームの指導は苦しいけど楽しいことが多い。
内田良さんの「ブラック部活動」を読み始める。気になったので後ろから読んでいる。後半の座談会のくだり。結局、勝敗の枠で部活動というものを捉えているところをみると、違和感を禁じ得ない。甲子園が始まる。ドラマ仕立ての報道にどれほどの人が歓喜するか。吉井さんの本は何かとヒントが多かった。僕は自分が考えているやり方、考え方を大切にしつつ、いろんな人を会って生徒に還元していきたいと思う。横文字に飛びつくのではなく、目の前の子に。迎合じゃない、寛容でもない。ひたすら真摯に向き合うのをこのチームでは力を入れていきたい。
(結果に関してですが、今年はウチだけの結果ではないので詳細はアップしません。言いたいことは書けないこと。学校に関わる人なら誰でもわかる、当たり前のリテラシーで今年のチームを見守ってください)

2017年7月22日土曜日

「合同チーム結成」

今日は午後から合同チーム結成式と合同練習だった。午前は夏の大会の二次抽選会。大阪360校ほどの参加校から勝ち残った64校。ここからはごまかしがきかない真剣勝負が続く。ウチは今年は縁がなく外から傍観。いいトシして別に勝たせるわけでもなく、役職があるでもなく、ただその時間を過ぎ去るのを待つのみ。ここはもうあれこれ言わない。
昼から生徒の自己紹介、顧問の自己紹介を経て、新チームの結成をみた。ウチは5人、向こうは7人。それでも今日はウチも向こうも一人欠席。近畿、全国を目指して汗を流すチームもあれば、今日のウチみたいに地べたを這うようなチームもある。お互いに補完できるようなメンバー編成になったので、これはこれでおもしろいな、と感じた。ドラマはそれぞれの学校のサイズに存在している。
「このコーヒーを楽しみにして頑張りましょ」と、ペアの先生が用意してくれた缶コーヒーがあった。猛暑の中の練習だったので、こういうちょっとした楽しみを用意してくれる気遣いに感謝した。昔からよく知っている先生の学校なので、お互い変な気遣いもない。適切な声かけをしてくれるので、生徒たちも満足して帰路についた。
よそよそしかった2校の生徒も、終わり頃には自然と会話を交わすようになっていた。いい練習だった。
このチームでは監督はペアの先生にお願いした。こういう立場はかなり久しぶりで、ここでもしっかり勉強したいと思っている。会いたい人がたくさんいる。どこまで実現できるだろうか。
今日は節目。新しい刺激の始まりとなった。

2017年7月18日火曜日

「2年ぶりの野球部の教科書」


今日から新チーム。最近配ることをためらっていた、野球部の教科書を生徒に配った。今回はファイルに閉じさせた。第4版。食い入るように読んでいた。こういう自分の指導の根幹に関わるようなことを置き去りにしてきたから、ここ数年しんどかったのかも、と思った。起きる現象にあとから「これでいい」と帳尻を合わせるようなことが続いていた。新チームは5人。リセットして、仕切り直すのにはちょうどいいと思って決めた。今日はこれの授業をしてからミーティング。2時間近くやっていた。そこから練習。終わると5時を回っていた。
グランドの外で、野球部の人数の少なさを見ていろんな部の生徒たちが気にしていた。こんな少ない人数で何をやるのか、という周りから見たら奇異な集団でいい。やっている本人たちが意味をわかってやっていれば、すべてはプラスだと思う。そういう活動にしていきたい。しばらくは練習はじめに授業をしてから実技の練習に入る。

今日も懇談だったので僕はほとんどつけなかったけど、こういうチームの黎明期に丁寧に言葉を積み重ねていきたいと思う。
朝は野球をめぐっておもしろくない気持ちでいたけど、教科書を配って吹っ切れた。言葉を大切にするチーム、意味に重きをおけるチームにしていきたい。応援してやりたい5人の初日だった。

2017年7月17日月曜日

「二回戦とその後」


昨日、3年生が引退した。あっけない幕切れだった。負けるときはこんなものかもしれない。
初回の失点があとまで響き、そのまま敗退。4試合目で開始が15時30分。海に近いグランドだったので、引退していく生徒に話をしているときは夕焼けが水面に映えていた。
今日は三回戦のお手伝い。本隊はオフだったけど、僕は運営に携わった。いっこうにうまくならない審判業務のあと、アドバイスをいただいた。そもそものところがまずなっていない。反省しきり。
三回戦が終わるとベスト64。これをひとつの目標にして戦っていく。「中学生らしい」という言葉が僕は好きではないけど、こういう大切な試合はその「らしさ」が絶対必要。ワンマンの、仲間の力を信用しないような、そんな生徒が中心だと絶対にこの先はない。
それと、自信。追い込まれたときに「無」になれるのは圧倒的蓄積か、ビギナーズラックしかない。弱気という邪念はパフォーマンスを阻害する。うまくいかないものだ。
大人の世界でもあるけど、理不尽でしか得られないものがあるという変な信仰心をどうにかしたいと思う。中学校の野球にはそんなもの必要ないと強く信じたい。
明日からまた学校。あと少しの1学期。次のチームは「中学生らしさ」をモットーに、地道にチームを作っていきたい。次は部員5人。合同チーム。新しい知見を得られると思うと、それも楽しみだ。
〈結果〉
H29.7.15
夏二回戦 ✕誠風 1−3 ●

2017年7月9日日曜日

「一回戦」

今日は大阪の南の方へ。夏は普段ゆかリのないところへ赴くので、これはこれでおもしろい。南海電車に揺られた。海も近いところの球場だった、
4試合目ということで直前の3試合目に義務審判。下手だけど審判もおもしろく、最後の夏を緊張感もってジャッジメントする。今日は雨が心配だったけど、思いの外、もった。
相手校は好投手。これは点がなかなか入らいないだろうなと思った。生徒もそういう印象。我慢比べだった。運良くヒットとミスで点を重ね、それをキープして逃げ切った。
試合途中、雷の音が。昨今、雷は即時中断。再試合も覚悟したけど、なんとかできた。聞けば、大阪のあちらこちらで豪雨と雷鳴で中止が相次いだらしい。5回を終わってリードしていたので、このまま…と思ったものの、そうはうまくいかない。相手は好打者揃いなのでしぶとい。終わるまで気が抜けないゲームだった。
ゲーム後のミーティング。夏の勝利はすなわち引退していくチームの思いも背負って、次のゲームを迎える。これをしっかり認識して二回戦を迎えようと話した。勝って応援してもらえるチームに。それが理想。
今日みたいに遠出すると大阪市の先生がいると安心する。よくゲームを組んでもらう先生もいた。惜しくもその学校は負けてしまったみたいだけど、きっとまた良いチームづくりをしてくと思う。勝ち負けももちろん大切だけど、生徒に対してあったかい声かけができる先生は応援したくなる。ウチはこうしてるよ、という話をした。ほんのちょっとだけ夏の回数が多いので、参考になれば。
明日はいつも通り、朝清掃と自主練。休んでもいい。大会だからといって特別なことをするのではなく、大会中だからこそいつも通り。それ以上でもそれ以下でもなく。生徒に違和感をもたせながら夏を過ごすのはリスキーだ。こういうときこそ、いつもどおり。一番勝ちたいのは生徒。そういう気持ちをリードしていくのが僕らの仕事なのだと思う。来週ゲームができる喜びを噛み締めて、明日からも頑張ります。
(ランニングスコア写真に撮ろうと思って忘れました)
〈結果〉
夏一回戦 ✕富田林二 2−0 ◯

2017年7月2日日曜日

「大会前ラスト練習試合」


今日は東大阪の学校とゲーム。ちょっと古いご縁で、わざわざご連絡いただいて実現した。中学校の部活動は強い弱いじゃなくて、ひとえに「縁」の有る無し。グランドがないウチとしてはとてもありがたいこと。
ゲーム前、今シーズン初のセミの鳴き声。夏が来た。ゲームは一つ目は公式戦を意識した締まったゲーム。二つ目はラストゲームということで生徒にメンバーを組ませた。これが良くなかったのか、相手がいるにも関わらず緩んだ気持ちが見え隠れして、序盤に大量失点。なかなか立ち直れず、自分たちのミスに矢印を向けられない精神的な弱さが露見。ウチの課題がモロに出たラストゲームだった。
いよいよ来週
が本番。地域によってはもう引退を迎えている学校もある。少しでも長い夏になりますように。楽しみな日々が始まる。
〈結果〉
H29.6.18(テスト前の分) ✕玉出
① 2−4  ✕
② 1−16 ✕
H29.7.2 ✕高井田
① 7−2  ◯
② 4−10 ✕

2017年6月29日木曜日

「部活動で主体的な活動は可能か?」

今日はテスト最終日。割と長く活動ができる日。今日は30分を一区切りとした練習メニューを提案した。昼食をとっている間に生徒に考えさせる。15:00までの活動と決めていたので、12:00から6つのコマがある。ランチの時間にいろいろと決めていたようだった。
はじめはノック。続いてランナーつき。バッティング、ケースバッティング、実戦形式の3イニングマッチ。キャプテンが指示して、休憩や給水、ノッカーを僕らに委託するなど、おもしろい采配ぶりで練習をコントロールしていた。テスト明けなのでしんどそうな場面もあったが、それぞれの課題に向き合って活動していたように見えた。
15:00になり、全体練習終了。ここで終わるのもOKとした。結果的に数人は帰宅したが、ほとんどの生徒は残って自主練習していた。帰った生徒を責めるような姑息なことは考えていない。生徒を値踏みするような、踏み絵的な「自主練習」であれば生徒を苦しめるものでしかない。別にここに縛りをかける必要はない。
いつもなら個人練習としているので、帰ることは許されない。でも今日は帰ってもいい。だとすれば、純粋に残って練習に励む子たちはポジティブにとらえていいはずで、サボタージュに対しては厳しく対処しても良くなる。サボりにペナルティを与えるわけでもないが、暗黙の了解のなかで生徒は自分の練習に課題に向き合っていた。
生徒に完全に活動内容を委任した主体的な活動は可能か。僕は「そういう活動のトライ&エラーをさせてきた上でなら可能」と感じる。いきなり「今日は自分たちで考えてやりなさい」というのは無理。丸投げするのは愛ではない。自分たちで考えた活動が単に「やりたい練習」であるならちょっと違う。「やるべき練習」であるなら黙って見ていればいい。最初は指示も必要であろうが、枠だけ与えて考えて活動することに慣れてくれば、なんなり練習してみようという気になるようだ。
野球は驚くほどの多数のケースが存在する。これを全部カバーしようとするのはかなりの時間と労力と気力がいる。技術も必要。果たしてどこまでできるものだろうか。ネットで、ライバル校の調査をし、研究して練習に臨み、連日22時くらいまでの練習も辞さない、というある学校の実践例を見た。それって学校がする部活動なのだろうか。そういう世界があってもいい。でも普通の中学生にそれがどこまで可能か。先のネットの記事に「勉強になりました!」とか感じている先生がいたとすれば、僕はこういう事態はゆゆしきことだと思う。何か違うと思う。
主体的な活動は、主庭的に考える練習を重ねて、失敗や回数を重ねて初めて成る。委任と放任を履き違えて、何でもかんでも生徒に任せてしまうのは指導ではない。今日の練習でちょっとそんなことを考えていた。
教室で生徒に任せるとき、何の前提もなく為されることはない。顧問はいるだけでいい、というのが僕の考える理想の形なのです。

「部活動指導者としての学校の先生」

 先日「教師教育を考える会」のメルマガに拙稿を載せていただきました。ここでの話題にしても問題ないと思いましたので、転載します。ぜひ、ご批判、ご指導いただけたらと思います。ちょっと長いですが、よろしくお願いいたします。
(追記)
「教師教育」という言葉をはじめてお聴きになる方もいるかもしれません。近年にわかに注目され始めているOJTによらない、教師の成長を考えていく研究分野です。若輩者ではありますが、私見を述べております。
1.丸腰で部活動指導をさせられる若い先生
 大阪市の中学校で、野球部の顧問をして15年めになりました。
 僕は典型的な「野球を教えたくて先生になった」クチで、採用と同時に野球部の顧問になりました。他の部の経験はなく、すぐに自分の専門の野球を教えられる立場となりました。
 中学校の現場では、若い先生は部活動の顧問(特に運動部)に充てがわれます。経験の有無は関係なし。若いというだけで担当が決まります。
 「◯◯先生の代わりに来た先生、若い人やから◯◯先生のあとに陸上部任せたらいいね」などと、その先生の「部活動顧問としての専門性」が話題になります。
 学校にとっても、ある部の顧問が抜けて次の顧問をどうするのか、というのは学校の体制を左右しかねない大きな人事案件と言えます。
 しかし、部活動指導に関しては、養成段階での勉強があるわけでもなく、若い先生方が部活動指導で悩むのも無理ありません。
 「野球部でいじめ事象があった」「サッカー部で万引きがあった」「バスケット部が遠征移動中に電車で迷惑行為があった」などなど、こんな情報は耳を塞いでいても入ってくるものです。
 3学年の担任になる部活動顧問。若い先生が丸腰でうまくいくはずがないのです。
 現在、教育実習生が本校に来ています。彼らに聞いても、部活動指導について、大学であまり学ぶ機会がないそうです。
 僕も自分が受けてきた指導を焼き直したり、先輩から教えてもらったりしてその知識を得てきました。指導の方法や教師のあり方は、今思うと当初の自分のイメージとはずいぶんかけ離れたものでした。
 僕はそんな問題意識から、本を書かせてもらいました。『部活動指導スタートブックー怒鳴らずチームを強くする組織づくり入門ー』(明治図書出版,2015)と銘打ったその本は、部活動顧問を夢見る学生、なりたての若い先生方をイメージして書いたものです。
 この本は「どうやって部活動という組織を作っていくのか」ということに焦点を当てています。学校をめぐるあらゆる仕事のうちの、どの部分に部活動が位置するのか、どういうふうに部活動顧問業をとらえたらいいのか。こういう現場の「当たり前」を顕在化させたという特徴があります。
 学級経営や教科指導の本はあまた出版されているなかで、普通の部活動指導に関する本はほとんどなかったように思います。
 多くは「目指せ全国!」「勝つための……」といった、一足飛びの印象を免れない趣旨のものばかりです。僕が知っている限りでは、若い先生はそんなところまで行き着いていないのです。
 「学ぶ場がないならつくればいい」ということで、複雑な問題が散見する部活動指導について、先日学習会を持ちました。大学生も多数参加してくれました。関心の高まりを感じました。
 現場でも、部活動指導について積極的に研究は進んできていなかった現状があります。生徒指導の一環としての認識はあったものの、「ではどのようにしてなされるべきか」ということについては、いままさに普遍的な価値観が見直されてきている時期といえます。
2.部活動指導は「独自採算」
 部活動指導は、はっきりとした「独自採算」です。教師は毎日あらゆるリスクを負いながら放課後の部活動に従事しています。
 たとえば、「部のトラブルは部で解決を」といった暗黙の了解があります。確かに、部の責任は顧問かもしれない。
 でも、若い先生がそんな臨機応変にトラブルに対処できません。経験がなさすぎる上に、先述したようにそういったことをほとんど学ぶ機会がなかったのです。仮にそれがあったにせよ、現場で起こる指導事象は実に多岐にわたります。ひとつずつ対処していくためには、やはり現場での経験がモノを言います。
 部活動をめぐる諸問題は、ネットだけでなく世間を騒がせています。体罰、長時間勤務、連勤など。現場の人間からすれば「やっと出てきたか」と思う限りです。部動をめぐる現状は複雑なものなのです。訴訟も起きています。そんな重責を一手に担わなければいけないということを、教師を目指す学生たちは、どれほど自覚しているでしょうか。
 一方で、すべてが顧問の責任となるのも困ります。
 現場では、非常に微妙なバランスで、あまりそうしたことを考えずに、部活動指導が行われています。重責を前にして、部活動顧問から逃げ出したくなるのも当たり前です。
 逃げる……。こういう感覚が中学校の現場にはあります。何も「逃げ出した」わけではなく、自分にはできないと判断した、ある意味では、賢明な選択かもしれません。
 勝たねばならない、休んではならない、求めに応えなければならない。
 そんな縛りにも、経験の乏しい先生は苦しんでいます。
 いずれにしても、現状では、中学校教員から部活動指導を除くことはできません。立て込んだ指導には関知しない、自分の部を若い先生に任せて定時に退勤…そういうベテランの先生もたくさんいますが、ベテランの先生も若い先生も、本来は同じ責任を担っているはずです。
 生活指導に関しても、ベテラン教員はきっと若い先生よりも長けている。生徒指導のノウハウもない若い先生にとって、部活動指導は負担でしかありません。 
 
 若い先生が過剰に部活動指導に時間を割かれずに、授業や教室づくりの力を磨いていくためには、部活動指導へのベテランの参画は大変重要です。
3.「地続きの指導」の提唱
 嬉々として、専門の部活動を持てた先生はどうでしょうか。昔気質の威圧的な姿勢で生徒に向き合っていないでしょうか。今日的な部活動指導のあり方は、もっと議論されてもいいと僕は考えます。
 学級において、失敗した生徒をやり込めますか。もしやりすぎていたら、隣のクラスの先生や学年の先生がたしなめるはずでしょう。
 よく「生徒になめられてはいけない」と聞きます。ベテランの先生方ならクリアしてきたであろう方法知が、思うように伝達されていないのです。
 しかも時代の要請も変わってきています。
 学級をどうしていくか。授業をどう組み立てていくか。4月にはどんなふうに声をかけるのか。こういった視点を部活動指導にも採用していくと、すべきことがわかってきます。
 養成段階や若い先生にどうやってそれを知ってもらうのか。その部分の発信こそ、僕の問題意識そのものです。
 部内で折り合いがつかず、辞める子がいたとしましょう。本人、保護者、顧問が納得していても現状では「挫折体験」として生徒には残ってしまいがちです。『辞めたらあかん』という縛りが生徒を苦しめる現状もあります。
 「熱血」のイメージが、学校における部活動指導をおかしなものにしてしまっています。
 いまだにグランドに怒声が響きます。そんな先生は、教室でも事あるごとに怒鳴っているのでしょうか。
 「グランドでは人が変わる」とうそぶく先生がいます。そんなのは生徒にとって迷惑でしかありません。教室では優しいのに、グランドでは毎日怒って……。耳に痛い方もいらっしゃると思います。無理もありません。
 それが現状であり、昔からのやり方です。
 僕はこういう現状を見て、「地続きの指導」というものを拙著以降、提唱しています。
 「グランドと教室はつながっている」というのがこの考えの基礎。
 グランドと教室がつながっているのであれば、同じように生徒と接すればいい。いろいろな子がいる教室で、どうにかして所属感を高めようと考えたり、起こる問題をみんなで考えたり。多くの先生は苦心して良い学級を作っておられます。
 授業も然り。生徒のミスに毎回怒鳴って指導していますか。きっと違います。
 「そんなふうにしたら生徒になめられるのでは?」上下関係でとらえるとそういうことも言えるかもしれません。でも、信頼関係という視点で考えると、粘り強く声をかけて、できないことをできるように助けたり、同じことで何度も注意したり。教室ではそんな光景は当たり前のはず。でもグランドではそうじゃないのです。
 金メダルをとるために、厳しい指導を受けているジュニア世代を目にします。メディアは、こぞってそういう報道を繰り返します。
 ただそれはそういう活動であるということがわかって指導を受けているのであって、プロフェッショナルを育成する機関としては部活動の場面は不向きだと考えます。
 第一、毎日指導にべったりつくことはできません。初心者の子もいます。
 朝練? 僕はいらないと考えます。生徒の本分は授業です。お弁当を用意できない家庭もあります。そんなことを知らずに、勝つことを第一目標としてやってしまったら、保護者の理解はえられません。
 授業で寝ている自分の部の生徒がいたら「たるんどるな。ペナルティで走らせよう」と。生徒目線で考えたら眠くなるのは当たり前です。朝食をとらずに朝練に来ていたかもしれません。ぱっと思いつくだけでも、数々の背景が想像できます。
 『どうやったらいいかわからない穏健派』『自分のやり方でとにかく突っ走る熱血派』。
 いずれも適切な指導はできません。学校の部活動がどういうものか、よくわかっていないからだと思います。
 わからないからといって放置するのも考えものです。
 また、ペナルティで縛り上げるのは、外聞や体裁を気にする顧問のエゴイズムに他なりません。
4.「ブラック部活動論」のこと
 最後に、いま何かと話題になっている「ブラック部活動論」について、述べておきたいと思います。
 部活動の顧問は非常に膨大な時間的な拘束があります。土日に活動、しかも一日中。例をあげれば枚挙にいとまがありません。家庭事情もありますし、健康状態もあります。何かを犠牲にしていると思った時点でその活動スタイルは破綻しています。
 異常なまでの過熱は確かに考えものなのですが、僕は一連の動きをとても冷静に見ています。というのも「中学校の先生ってそういう仕事じゃないの?」と思うからです。
 ただ、だから現状を全て受け容れなさいということではありません。
「そういう仕事」の中身が問題です。
 語弊を恐れず言えば、部活動が完全に学校現場からなくならない限り、同様の現象は回避できないでしょう。変えなければならないのは制度の前に「考え方」や「あり方」です。
 高校野球の甲子園大会に見られる精神性は、部活動というものの非常にわかりやすい例だと僕は考えます。ひたむきに打ち込む子どもの姿は見る人の感動を誘い、ドラマや美談として語られます。
 僕はこのような「何もかもを犠牲にして打ち込む」という姿勢が、果たして学校の現場に向くものなのかと懐疑的な見方をしています。そこまでじゃないのに……、という一定の層がもはや入っていけない世界になっているのです。
 僕が関わっている中学校の野球部の世界でも丸坊主がずいぶんと減ってきました。ここでは詳述しませんが、要するに世間が「気づいてきている」のだと僕は感じています。
 プロフェッショナルや全国を目指すような、そういう活動がもちろんあってもいいと思います。ただ、そればかりではない、そうじゃなくていい、という考え方がそろそろ学校の部活動の現場に入ってきてもいいのではないかと。
 顧問がまず指導すべきは、生徒としての一人前。学業はそっちのけ、掃除もロクにしない、行事にも非協力的。こんな生徒がいくら大会に勝ち進んでいこうが、僕は何の値打ちもないと思います。
 いまのような時代だからこそ、「学校の教育活動としての部活動」というものをもう一度見直し、今までは言いにくかった「勝つことよりも大切なもの」を声高に言うべきだと考えます。
 だから必ずしも土日に活動しなくてもいいし、もちろんしてもいい。スケジュールやタイムマネジメントは顧問の裁量に最大限に委ねられるのが理想です。
 そこまでなって、はじめて多少の時間のオーバーは、致し方ないと個人的には思います。現行のシステムのままでは、ますます不都合が出続けるとでしょう。
 システムの変遷は僕の関心事です。学校の部活動の目的が明確になれば、生徒の側も選択に幅が出るのではないでしょうか。ちょっと違うな、と思う人は外のチームへ。学校の部活動に関わる者としては「こういう形でしかできません」と言い切る活動にしていきたい。そう思います。
 現在21連勤の真っ只中です。現場から「学校だからできる部活動のあり方」を発信し続けていきます。
 初心者の子が引退をかけた試合で、タイムリーヒットを打ちました。駆けつけてくれた保護者が、泣きそうな顔で僕に感謝の言葉をくださりました。卓球部から移ってきた生徒でした。本人も笑顔で引退していきました。
 それぞれの部に、それぞれのドラマがあります。厳しい社会の中で、学校くらいはその子の全てを受け入れる場であってもいいのではないでしょうか。
 僕は専門でやってきた部の指導をしています。
 技術指導の聖域に守られて指導を続けてこられたことに自覚的でないと、教員志望の学生や若い先生には偏った形で伝わります。僕としては、いまここに自分の問題意識が移りつつあります。
 教えられない人でもできる指導がきっとある。目指すはそういう指導のあり方です。専門外の先生がいかに「部活動指導者」でいられるか、いるために何が大切なのか。
 学校と学校外との役割分担がなされたら、いよいよ本格的に職務の精選とマインドの共有(もしくは住み分け)が始まることと思います。
 学校の部活動の目的がますます注目されるなかで、先生にしかできない、学校にしかできない部活動指導というものを、教員志望の学生や若い先生たちと考えていきたいと思っています。

2017年6月11日日曜日

「『野球部らしく』の弊害」 〜いまどきの部活動指導論としての一提案〜

今週は土日のゲーム。体調不良の子がいたり、所用で抜ける子がいたりと、昨日は11人、今日は9人で活動。この時点ですでにしんどい。
連日、エース不在。その日のベスト、というのが僕のポリシーだけどエースがいないというのはどう気持ちを整理しても大きい。でもその分、いつもと違うポジションを務めたり、普段出る機会が少ない子が試合経験を積めたりと、それ相応の楽しみがある。昨日は午後、今日は午前の活動。
昨日は2回で5失点。やはりうまくいかない。敗戦ムードがすでに漂う。相手チームはギャラリーで沸き返り、こちらに憐憫の情をもつ人がいただろう様子。しんどかった。僕はどれだけしんどいゲームでも大逆転をしてきたゲームを何度も見てきた。こと、夏の大会はそう。この日も序盤に大量リードを許しはしたが、ここからどれくらい巻き返せるかと考えていた。こんなのはキレイゴト。やっている生徒はほとんど無抵抗。でも、僕のそういう言葉に呼応してくれる子がいる。ここから巻き返して10ー6で逆転勝ちした。ビッグイニングを作って流れを引き戻した。良い経験になった。2つめもよく打った。良い部分がたくさん出た。
今日は9人。やりくりがやっぱりしんどい。1つめは競り負けで敗戦。2つめは序盤リードを守って逃げ切り。でもムードが盛り上がらない。ここで「元気出せよ!」「声な!」とハッパをかけるも、やはりいまひとつ。結局疲れが抜け切れていないのが生徒のパフォーマンスを下げた大きな理由だと思う。体力がないとか、覇気がないとか、きっと生徒もわかっている。目に見えてリウ現象で生徒を評価するのはハードなことだと思う。
「杉本先生の思っている感じではないのではないですか」と話の中で出た。きっと緩慢な様子に見えたのだと思う。キビキビして大きな声で、というのは理想だけど、少ない人数で9人でやりくりしている中でどこまでその「理想的なキビキビ」を求めるかというのに、関心が向く。健気に全力で向き合おうとする生徒の姿は確かに理想。ただ、理想のために実を見ないまま名をとるのはもういいかなと思って、あまりうるさく言わなかった。こんな日もある。僕は別にそれくらいでいいと思う。
「野球部とは?」「野球道とは?」「肚を決めて」「死ぬ気になって」など、僕も野球をやってきたので憧れるフレーズ。でも線で生徒の日常を捉えると、そこまで縛り上げなくてもいいのではないかと思う。高校は甲子園がある。甲子園はドラマになるけど、それがいろんなものを見えなくしているのも事実。野球だけやっていればいい、甲子園に出るためには何でもする、って、本当にそんなことで良いのかと思う。
野球人口が減っている。サッカーをやろうとするのと、野球をしようとするのと、初心者がそれらに向き合うモチベーションがあきらかに違う。野球もそろそろ大企業体制を卒業したほうがいい。野球のすべてが甲子園につながっていくというような、変な縛りは日本の野球にとって弊害でしかない。
いてる子たちで、やれることを。僕も勝ちたい。でもそれは生徒と野球を楽しみたいから。勝つための野球も僕にとっては勉強していかないといけない分野。でも学校の部活動はそうじゃなくていい。そうじゃないからできている子たちが、やってよかったと思えな中学校の野球部の活動はリスキーだ。生ぬるいとか甘いとか、別にそんなの気にならない。来週もひとつずつ重ねていく。それだけです。
〈結果〉
H29.610 ✕田辺
① 10−6  ◯
② 14ー6 ◯
H29.6.11 ✕佃
① 2−5 ✕
② 7−5 ◯
来週末は練習とゲーム。玉出中にお世話になります。残すはゲームは玉出中さんと高井田中さんとの二つ。佳境です。

高校版 修学旅行に行ってきた

二泊三日の修学旅行を終えた。よかった。誰も損をしない行事になった。 ちょっと昔、修学旅行委員長に推した生徒がいた。引っ込み思案、でも、力がある。彼はやりたそうだったので、僕が推した。八面六臂、気配りや決断力があった。その彼をレクレーション大会のあと、みんなでサプライズで感謝の言葉...