2017年2月26日日曜日

「教室では聞かない声で満ちているグランド」


今週から連戦。土日、みっちりゲームを組んでいる。
昨日は朝。途上でちょっとしたトラブルがあった。こういうのは部の運営でつきもので、顧問の先生ならきっと焦るような事案。でも、どこにも載っていない。クラスや授業のことはたくさん書物があるのに、部活動の運営に関して手薄というか、ブルーオーシャンであるのが改めて怖いことだと思う。勝つとか負けるとか、そういうことばかりがクローズアップされがちな部活動だけど、それを支える圧倒的に多くの他の時間の指導の在り方に関して、やはりちゃんと書いていこうと思う(ここでは個々の事象はあげません。いずれまとめて。)
「練習試合を使う」ということをここ最近生徒によく話している。練習試合であれ、結果がついてくるのでそこばかりに力点がおかれ、チャレンジやトライが避けられる向きがある。結果が出ていなくても、試合のなかで場面場面で自分の可能性を伸長しようと試合のその場面を「使う」選手になっていこうということ。練習試合で完封したり、3安打打ったところで、あくまで練習の延長。守りに入って結果だけを求めてやっているなら、公式戦の極度の緊張の中、その域を超えることはできない。公式戦で仕事をする、活躍できるのは練習試合で活躍していなくても地道にいつもやっている子。こればかりはおもしろいほどそうなる。野球の神様がいるのかいないのかわからないけど、いるとしたらこういう子に力を貸すのだろうと思う。3安打を鼻にかけているような、完封することに躍起になって味方のエラーを攻撃するような、そんな子には当然のように結果は出ない。エビデンス云々ではなく、物事はきっとそうなっているらしい。
ともあれ、試合でしか得られないあの緊張感でその空間を存分に活かして、試合を使うということをまた話していきたい。
今日のゲーム。おもしろい場面があった。相手が5点リード。ウチがランナー3塁のチャンスを得た。相手の守備布陣は1点を献上OKのアウトを取りに行く様子。これは僕にすれば当然の策だと思って、「相手は点あげてもいいと思ってるからゴロで点もらおうぜ」とみんなに声をかけた。結果、ショートゴロ。1点もらった。これに相手のベンチは注意の声。なぜ前進守備を敷かなかったのか、という指導だった。これにはあれこれ思うことがあって、試合のあと、相手の生徒たちとやりとり。「あの場面は後ろに守ってアウトもらおうって話やったの?」「はい。」「じゃあ、それはベンチと意見が違ったんやね。そこはこれからすり合わせたほうがいいやろうね」。今日のチームは合同チーム。2校で構成するチームなので、こういうことは少なからずあると思う。
試合後、相手の先生にここの場面での「僕ならこうするかな」という話をした。力のあるチームだからここで話さなければ次に当たる時にウチのリスクは減る。でも、こういうときに僕は思っていることを話す。それこそ生徒の利益につながる。今日はそれで生徒は叱られていた。参考にしてもらえるかわからないけど、生徒にとってそうするほうがいいと思うことを提案。勝ち負けより、せっかく試合をやった相手なのだからうまくなってほしい。ウチのチームが一番かわいい。でも、それとこれとは違う。
やっと表題の話。昨日も今日も、教室ではほとんど聞かれなくなった言葉で満ちている。授業やクラスで生徒にそんな声かけをするかなあ、という声。別に先生方をやり玉にあげているのではない。普遍的なひとつの場面として僕は見ていた。僕も生徒の振る舞いに関して、気に入らないこともある。カッとすることも。でも、それは何に基準を置いているかということで、試合を使うという視点でいけば、オールOKになる。公式戦では失敗は許されない。でも、失敗がない試合はない。野球は失敗が必ずあるスポーツなので、「できなければならない」ではなく「できたらラッキー」でいいと最近は考えている。だからヒットは嬉しいし、点が入ったら喜べばいい。こういうことに指導者は反応しているだろうか。点が入ってもムスッとして、スクイズを間違ってヒッティングして点が入ってもベンチで怒られる。そこは試合のあとに整理すればいいのに、打った生徒は「点が入ったのに」とい気持ちをもったまま先生の話を聞く。勝った負けたのために、ひとつの失敗があたかも大失敗であるかのような指導が、学校の部活動の場面で行われている。教室でそんなことがあるか。おそらくない。
明日は自主練習。毎週月曜日はやってもやらなくても良い日。また週末は連戦なので、心身リフレッシュしたい子はうまく使ってほしい。僕も放課後は漢字の再テスト。それぞれの場所で頑張ればいい。学校ってそんなところだと思う。
(結果)
H29.2.25 対 歌島
① 7−0 ◯
② 3−3 △
H29.2.26 対 大宮・桜宮
① 0−2 ✕
② 1−6 ✕
いつも負けてばかりのチームがちょっと勝てるようになるといろいろと不都合が出てくる。今日はそれを整理できた。
来週も頑張ります。

2017年2月20日月曜日

「勝つことを意識すると負けることが怖くなる心理について」

先日の春の大会の抽選会以来、野球のことを考え始めると止まらない。ここにきて気がついたけど、ちょっと俯瞰すると「勝つためにどうするか」ということばかり。たぶん生徒もそれに何のためらいも疑いもなく、そういう僕の話を聴くと思う。でもそうなると「あれができない」「これが足りない」と自分たちのネガティブなことばかりに目がいって、それを満たしている(もしくは満たしているであろう)他のチームと自分たちを比較し、勝手に自分たちで枠を作って「勝てない理由」を作り上げて臨むことになる。間違いなく今までがいつもそうだった。自分たちの足りないことをいかに直視せずにかわして試合に勝つか。確かにこういうことは大切なのかもしれない。
最近の自分のやり方で、前なら管理していた部分を生徒に任せてやりきっているところがある。生徒が自分のやり方に自信を持って試合に臨むためには練習で失敗し、練習試合で試し、これでいいやと思って臨める状態にすること。細かい決め事や外せないセオリーはある。そこはボールが動かないとできない練習。なぜ不安になるのか、ということを突き詰めて考えると「失敗したらどうしよう」と考えるから。そこで、自分にはこれしかないという唯一の方法を与えてやることで、腹を決めてやるのが一番いいのかもなということを思うようになった。腹を決めるとか、そんな物騒な言葉はイヤだけど、教室でも失敗したくない空気感に満ちている。でもそれをフォローしたりカバーしたりする存在があることで安心して発信できるようになってくる。ただ、部活動の場はそれとは違う。
勝ち負けという決定的な結果が出る。そこだけにこだわる子ばかりになると、失敗は絶対許されない空間になってしまう。失敗しない人なんかいないのに。こんな強烈なプレッシャーはない。大会は生徒の成長も期待できるけど、うまく力を発揮できなかった子には非常につらい場になる。次がないかもしれない。でもそれが勝負事。
顧問は部の一番のファン。一番の理解者。生徒が、自分のやりたいことができるための準備をしていくしかない。最近、自分が思っていることをゆっくり生徒に話していない。聴く時間もとっていない。自習だけの授業みたいになっている。自習はあくまで自習。いっしょにいるのにこれじゃいかん。勝ち負けより、なぜいっしょにいて野球をしているのかというのをきちんと話して、大会に臨みたい。

2017年2月15日水曜日

「指導者ライセンスとプロ・アマのこと」

昨日から連投です。
昨日の投稿から「野球関係者の指導者ライセンス」の話題が少し出た。気になったので少し調べてみると、まあ「ライセンス」が濫立していること。これじゃどれを取ればいいのかわからない。野球の指導者は誰でもなれる。そのへんを歩いている人が「僕は野球のコーチができる」と言えばできる状態。

サッカーはその点、ピラミッドがしっかりしている。Jリーガーが小学生やアマチュアを指導しているのをメディアでもよく目にする。いちいちピックアップはしないが、野球は大昔にプロとアマとで大きなトラブルがあり、いまだに断絶状態。それでいて、プロ野球はおそらく日本で一番稼げるプロスポーツ。翳りはあるが、任期は根強い。ただ、誰がどうやって教えるのか、ということは無法地帯。野球がもう古臭くなってきていることに、気づいている人はどれくらいいるのだろう。
プロがあるのにアマに指導できない。「学生野球資格回復制度」で昨今大きく前進したが「回復」とはいったい何がどう回復することなのか、僕は理解に苦しむ。悪いことをするとでも言うのか。
野球において指導者ライセンスの制度を整備していくのであれば、選手が野球に敬意を払い、自分がプレーヤーである誇りをもってプレーすることを最優先にしてほしい。なぜそうするのか、なんのためにそうするのか、というひとつずつにきちんと意味合いを持たせて、指導者が自戒しながら指導することを求められるような内容が望ましい。
おしかり覚悟で述べると、プロが模範にならねば良い文化は育たない。プロたる所以はそこだと思う。ストイックに自分のプレーを追究する姿はアマチュアには大いに刺激になる。そうなるためには、マインドもプロでなければならず、イズムに圧倒されるような指導者になっていかねばならないと思う。
もう誰か忘れたけど、ボールを足で止めているプロの選手を見たことがある。グランドに何かを吐きつける人もいる。そんな人が数億円をもらって、日の丸を背負う。僕には違和感しかない。
昨日述べたような部活動指導者としての教師という視点は、ここで述べた、僕が思う指導者ライセンスの目的とするところに近い。そういうものナシに、本来は指導できないはずだし、できたとしてもそれについて何度も試行錯誤、勉強している人には到底かなわない。人にモノを教えるというのは多分そういうことなのだと思う。人がしないような努力を続ける人、真剣に「どうすればいいか」を考えている人がプロであって、指導者なのだと思う。
野球のプロとアマの話はいつも残念に思う。野球のライセンス制度が定着していかない背景には大人の事情が絡んでいる。それが純粋に「野球がうまくなりたい」「野球が大好きだ」という子の芽を摘んでいることにどれくらいの大人が気づいているのか、そんなことを思う。制度がなくても指導ができる現状で、やはり頼るのは自分の感覚や感性。これを磨いていくことが、現状でのライセンスと考えたい。

2017年2月14日火曜日

「『部活動指導者としての教師』の今後」(長文です)

以下、戯れ言ながら、僕なりの危機感です。
新しい学習指導要領の案の文言に、部活動を「持続可能な運営体制が整えられるようにする」とある。これは果たして可能なのか。
僕が「部活動指導スタートブック」を書いた理由は、
①教員養成段階で、部活動指導者のための指導がほとんど行われていないこと
②現場に出ても部活動指導の研修がないこと
③多くは顧問のやり方に一任されていること
④中学校の教員になったら当たり前のように毎日活動があるのに、それがあまり前面に出てこないこと
などが挙げられる。困る人がいて当然。世には教科指導や学級経営の本はあふれるほどあるのに、部活動指導をどうしていけばいいのかという本はおそらくなかった。教員養成段階の学級経営の指導がないという問題点をかねてから指摘され、それを実現させたのは京都橘大学の池田修先生。いまではその必要性からか、他の大学でもこの視点の授業はあるだろう。
しかし、昔からその分野の本はあった。ただ、部活動にやはりなかった。書店で目にするのは勝つためのそれ。勝つ以前に、部活動顧問としての仕事が全くわからない人が先生になって、いったい何からすればいいかわかるはずがない。学級であれば、荒れたら困るということで何かと手ほどきなり手助けなりがなされる場合がある。
でも、部活動はどうか。「部のことは部で」と一任され、根本的な解決がなされないまま日が過ぎ、問題が再発すると「何してるんや、ちゃんと指導したのか」「だから◯◯部は」と後ろ指さされる。
そんなのが中学校の現状だった。少なくとも、僕が知っている範囲ではそうだった。それがここに来ての「ブラック部活」云々。僕はここではこの賛否はおく。本題ではない。
僕はここで、上の①の視点の強化を大いに推したい。
養成段階で部活動指導者としての教師という視点で学生に啓発、指導していくことで、採用されてからの働きが劇的に変わると考えている。「そもそも教師の仕事じゃない」というなら、もう完全に切り離すといい。仕事じゃないのだから。
でも、学校で行っている以上、学校の先生が指導している時点で十分な教育活動だと僕は思っている。複数顧問制を打開策としてあげる向きもあるが、何もわかっていない先生が部の活動に関わることがかえってマイナスになることも大いにある。安全とか健康とか、基本的な学校生活との両立に対しての考え方とか、こういうのが知見として何も備わっていない人が複数顧問だからといって担当に加わったとしたら、かえってトラブルのもと。
授業の指導案を検討するのと同じように、徹底的にケーススタディや健全な活動をどのようにやっていくべきかというディスカッションを通して、自分の部活動指導観を育成する。それによって青くても、甘くても、自分なりの形がイメージできる。もし現場に詳しい大学関係者がいれば(たぶん大学の先生になると思うのだが)、第なり小なり指導して学生の将来に寄与できると考える。
「しごく」「しめる」などの指導観がある。スポーツの世界では今でもあまり違和感なく用いられている言葉のように思う。エビデンスはない。あくまで印象批評だが、当たらず遠からずだろう。こういう選手生活を送ってきた学生がやがて教師になり、自分が受けてきたことが果たして正解なのか何も疑問をもたず「同じように」指導をする。当然。「どう指導するか」という視点を持たずに指導すること環境がそこにあるのだから。持たず、というより、持つことの必要性を特に指導されないまま現場に出ているのだから無理はない。経験してきたようにやるしかない。もし、自分の選手時代のそれに疑問を持ったにせよ、指導者としての視点は「指導者になる」という自覚をもって初めて発動される。選手でありながら「俺ならこうする」「私はこういう先生になって、こんな指導をする」と日々過ごす人はよほど意識が高い人だろう。ただ、それが誰に批評されることもなく、指導者になっていく(なっていかざるをえない)のだから、無茶や無理があっても何ら不思議ではない。
これだけ忙しくなっている現場で、新採用の先生が変な部活動指導をしているとしてもすぐに気づくことは難しい。わかったとしても、そもそもなぜそれがいけないのかということに、その時点で同僚が指摘するだけでわかるものだろうか。備わっていても、失敗はある。生徒は自分の思ったようにはならないから。なのに、備わってもいない人に、丸腰で指導させてしまっているのが、残念ながら現行のシステムだ。
部活動の組織運営をブラックボックス化させないためには、ある程度の共通認識が必要。だとすれば、OJTによる部活動指導の指導を若い先生にしていくのではなく、養成の段階で行い、ひいては初任研などで授業研究並の研修が必要だと僕は考える。「研修が増えるじゃないか」「そこまでして若い先生の負担を増やすな」というのであれば、もう部活動の顧問を新採用すぐの先生に担わせること自体がリスキーだと思わざるを得ない。
ベテランの先生が「俺らの時代はなあ……」と苦労譚を聞かせても、それは何の解決策にもならない。ベテランの経験を邪険にしているのではない。時代が変わっただけだ。「だけ」だけど、それが大問題であることを、そろそろ時代が気づき始めている。今まで教師の良心に拠るところが大きかった部活動指導がまさに過渡期を迎えている。養成段階できっちりとした指導を行い、また、初任研や若い先生への適切な研修計画(それがある程度整理された体系的なものであることが望ましい)のもと、生徒を育てて、同時に部活動指導者としての教師という視点で、より成長を支えていかなければならない。
これだけ大きな話題になっているのだから、条件面の改善で済む話ではないと僕は思う。いずれにせよ、改革の機会ととらえ、現在従事している僕もできることをしてみたい。

2017年2月12日日曜日

自分のルーツをたずねる2日間


土日は大阪も大寒波。雪はさすがに積もってはいないけど、グランドはカチカチ。生徒には酷なコンディション。
土曜日は母校。毎年いいチーム。僕らのときとは違ったユニフォームだけど、いろいろなことが懐かしい。ずいぶん下の後輩たちはたくましく、良いプレーヤーが多かった。僕らのときとはホームの位置が変わり、慣れた場所なのに違った風景に見える。この日は8人。助っ人でこちらに来てもらってなんとかゲームができた。ここともう1校、前任校のブロックのチームと対戦。懐かしくて新鮮なゲームだった。
今日はまた母校の中学校の近い学校とゲーム。寒い朝だったけど、1試合を終えたら母校の高校へ向かう用があったので早めにゲームをしてもらった。いろいろと情報交換。試合後、すぐに母校へ。
新しい校舎を建設中に僕の野球部時代があった。生徒がトンボを作るという伝統は残っているそうだ。グランドは黒土になり、外野の砂もきれいな色をしていた。監督先生とコーチ先生と情報交換。紅白戦が行われ、熾烈な競争を目の当たりに。課題をクリアできないとすぐに交代。目まぐるしく入れ替わる高校生たち。僕だったら一瞬で交代だろうな、と一人で思っていた。
自分が育った地元の学校とゲームをし、高校をたずねてこの土日は実家に泊まった。野球をする環境が今と昔とでは変わったよなあ、と考えていた。昨日は8人、今日は9人。体調不良やもろもろで活動に参加できる生徒が少なかった。加えてこの寒さ。こちらが「試合をやってやっている」というやり方じゃモチベーションの維持もきっと難しい。昔はそれで良かった。だからといって「やってもらっている」わけでもない。もっと純粋に「一緒にやっている」という気持ちでこの2日間を過ごした。試合中に薄い上着も着せた。過保護かもしれないけど、名より実をとった。寒い時期は筋肉が固くなる。筋肉量の多い高校生やそれ以上のプレーヤーは良いが、まだまだ筋肉量の乏しい中学生は事情が違う。「試合に臨む姿勢が……!!」と云々されてもいい。僕はこういうやり方で生徒と一緒にやっている。
来週からテスト1週間前。しばらくオフになる。課題をどうクリアしていくか、また一緒に生徒と考えて活動したい。
(結果)
H29.2.11 90分ゲーム
① 対 淀川  4−1(5回) ◯
② 対 大淀  4−5✕(5回サヨナラ) ✕
H29.2.12 対 今市
① 4−0 ◯
② ◯
冬を越えて、みんな頑張ってます(^^)

2017年2月9日木曜日

「平日2時間」

今日は終学活後すぐ、グランドへ。会議も指導も何もないときはいつもこう。一番にグランドに出て整備。次々に生徒が出てくるので僕に倣う。おおよそ集まったら練習開始。
今日は2時間グランドにいた。10人。二つに分けてティー組と守備組。僕はティー組の指導。ポイントが気になるのでその指摘。この2チームを入れ替え制で。守備組はやや緩慢に見えたので、ノックをお願いしていた先生にあとからアドバイス。少ない人数で最大の効果をあげるには、その練習の目的がはっきりしていないといけない。
そのあとは個人練習。置きティーで引き続き何人かにアドバイス。最近置きティーの良さを改めて見直している。良くなった子もいた。
練習後、職員室に帰ると「先生、今日は早くから整備してたなあ」とある先生。僕はいつものことだと話す。いつもは忙しくてほとんどグランドにいられないのが現実だけど。
早く試合でやってみたい、という練習に10人の子がなったかどうか。2時間の練習で始めから終わりまでずっとグランド。こんな毎日だといいのになあ、と思う。

2017年2月5日日曜日

「個人練習と自主練習」

ウチの野球部は月曜日は自主練習の日。やってもやらなくても良い、という自主練習。そして必ず平日の練習には個人練習を入れている。自主練習は名の通り、自主的な練習。個人練習は時間の枠を与えて、そこで自分で課題を探しての練習。ここ最近はこのやり方。試合で出た課題はみんなでやるけど、個々のレベルの課題はチームの練習ではカバーできない。場合によっては課題を与えることもある。中学生はまだ量をやらせたいところもあるけど、それは野球ノートで交信しながら生徒の考えていることと僕の考えていることをすりあわせていく。
試合は勝ち負けという「現象の結果」ばかり気になってあれこれやりたくなるけど、個々のレベルの伸長があってこそ、の部分もある。見る人によったら「放ったらかし」に見えるような風景。僕は生徒とこんなふうに練習を作っていってます。

「不必要な緊張感で生徒を苦しめていないか」

昨日は前任校から仲良くさせてもらっている先生の学校へ。大阪市の東の果てにある学校。ここの前の先生も知り合いだったのでたまに来ていたけど、先生が変わるとカラーも変わる。当然。
今の先生とは、近くの学校だったのでよく練習や試合をやってもらった。僕より若いのに、僕よりもしっかりしていて素晴らしいチームを作っていた。いつの間にか僕は彼のチームの雰囲気をお手本にするようになっていった。

そんな先生との試合前の会話。昔から知り合いの先生の学校に来たら、試合もそうだけどこういう会話のほうに盛り上がる。勝ち負けをおいておき、どんなふうに仕事をしているのか、子どもたちと向き合っているのか、という話になる。いまのチームの様子を見ると、前のチームとはまた違った雰囲気になっていた。いわく「なぜそういうふうにするか、ということを考えると今のスタイルになっていった」とのこと。悪い言い方をすれば、前よりもゆるく見える。ただそれは不必要な緊張感がなくなっただけで、僕は違和感より親近感を覚える。
先生が話し始めると直立不動、あいさつも誰にむかってしているのかわからないような斜め上を見て大きな声。僕は丸坊主にももう価値を感じない。そう思っているから彼のスタイルがとてもいいなと思った。かつては僕もそうだし、彼もそういうスタイルでチームを縛り上げて生徒に指導をしていた。今となっては全く不必要だと感じる。
1試合目に登板したエース。その子が2試合目にバックネットでカウント係をしていた。その子に「なんでここにおるんや」「俺はこっち(ベンチ)にいてほしいねん」「もう1回投げたくないか?」と彼に声をかけたらしい。あ、まだそういう段階でこのチームを育てているんやな、と思った。
ただこのやりとりにもその先生の変化を感じた。きっと昔なら「おまえ何してるねん!」「悔しくないんか!」「もう1回投げさせてくれって言ってくるんが普通ちゃうんか!」と、きっとやりこめていたと思う。「先生、変わったなあ」と言うと「最近、こんなんでいいと思ってるんです」と。僕もそう思う。
僕にとって練習試合は人に会いに行く機会でもある。
(結果)
H29.2.4 対 茨田北中
① 5−0 ◯
② 5−1 ◯
(先週の結果)
H29.1.28 対 大正東中
① 4−2 ◯
(1試合のみ)

高校版 修学旅行に行ってきた

二泊三日の修学旅行を終えた。よかった。誰も損をしない行事になった。 ちょっと昔、修学旅行委員長に推した生徒がいた。引っ込み思案、でも、力がある。彼はやりたそうだったので、僕が推した。八面六臂、気配りや決断力があった。その彼をレクレーション大会のあと、みんなでサプライズで感謝の言葉...