ダルビッシュが、
「高校野球の体罰も多かったし、高校生みんな坊主だし…誰がこの時代に坊主にしたい?って話だと思うんですよ」
と、テレビでコメントしたのがネットニュースになっていた。中学校野球の現場では、すでにこの天秤は経験している。坊主頭に合理性がない上に時代錯誤。校則の話にしていくとややこしいので今回は野球の慣習の話にとどめる。
野球部の顧問の界隈で、どこどこが強いとかいう話は2番、3番の話題。
「今年何人入った?」「いま部員どれくらいいる?」
これがここ数年のトレンド。中学生の中ではもう野球は選ばれるスポーツではない。野球はどうも根性とか、漢字をふんだんに使ったTシャツとかがイメージとしてある。汗だくで甲子園を目指す子たち。それはそれでいい。
中学校では髪を伸ばしていた子も、高校で野球をするというとすぐに髪を切る。何のためらいもなしに。甲子園というごほうびがそうさせる。これは大人もそう。指導者、保護者、周りの人たちがみんな通過儀礼というふうに考えている。
野球ってそんな神聖な、崇め奉られるスポーツなのか。
そう思うとあだち充の「タッチ」は預言書のようだ。あれくらいドライな感じが現代の子たちの感覚に近い。一瞬だけ踏ん張る。そういう力の入れ方。甲子園も一つの大会に過ぎない。でも、もうあんなコンテンツになってしまっているので取り返しがつかなくなっている。
僕は特にダルビッシュの信奉者ではないが、彼の発言はいつもおもしろいなと思う。そうだそうだと、うなずいているのは指導者じゃなくて生徒、子どもたちではないか。もう子どもたちは大人たちの欺瞞にはすっかり気がついているのだ。
一方で、本当に心血注いで甲子園を目指す。僕はこういうのはあっていいと思っている。自分の限界に挑戦する体験。そういう体験をする場としての装置。その意味で野球に打ち込むのは大いに賛成。自分で決めたことなのだから。ここは外野の「とやかく」に耳を貸さず、一心不乱にやったらいい。坊主がどうの、という次元ではない。それはそれであっていい話。
野球が本当におもしろいもので、みんなが大好きなものに変わるためにはボトムアップ。公園でやる野球が一番おもしろいって言われているようじゃ駄目だ。
野球離れは坊主頭が理由じゃない。もっとおもしろいもので世の中はあふれているし、古臭いスポーツというイメージが強い。野球じゃなくてもいいから、何でも打ち込んでみると目の前に壁が現れる。これとどう対峙するのか、自分はどうやってこれを乗り越えるのか。ここと真剣勝負していないなら、坊主がどうのは議論の筋とは違ってくる。じゃあ違うもので勝負すればいいのだから。おそらく、ダルビッシュは門前払い的な野球の旧態依然としている、君臨しようとしている、その姿を戒めようとしているのだ。
自分を磨ける場をどう用意するか。野球をやってみたいと思う子が時代遅れの大きな楯の前に、あきらめて違うものに目を向けてしまうのは悲しい。でも、今となればそれも必然。桑田氏の言葉で言う「現実はパーフェクト」だ。なるべくしてなっている。先の高校サッカーの選手権で決勝での、ベンチのあり方が対照的だったとネットニュースで見た。この手の現象へのレスポンスは実に正直。時代が許さなくなってきたのだろう。
子どもの代弁者としてのトップアスリートがもっと増えてくればいいなと、切に願います。