2016年12月1日木曜日

「先生と君たちとは対等じゃない」

連日、キャプテン主導の走り込みが行われている。今日は早めに出られたので、その様子がよくわかった。休憩をとりながら、流さず取り組む。まだひ弱さが見えるところもあるが、今週はきつめの練習。
僕は声をかけるだけ。それしかできない。
ケガをしている子に早めに道具の片付けを指示したり、僕自信がグランド整備を買って出る。ブラシを引きながら声かけ。今週はそんな毎日。
今日の終わりがけ、やはり同じように整地。走り込みを終え、片付けの頃になる。…小休止してから片付けや整地に出てくると思いきや、出足が鈍い。なんとか片付けと掃除が終わる。終わりがけにやっと1年生が「先生、ブラシ代わります」と声をかけてくれた。でも、ここは指導のポイント。練習終わりのミーティングでこんな話をした。
先生が整地するのが当たり前になって、練習を終えた自分たちは頑張ったから何もしなくていい。そばにいてる手すきの者がやればいい。もしそう思っているならもう一切手伝うことはしない。先生とみんなは対等じゃない。こっちは環境を与え、メニューを考え、やらせるのが仕事。みんなはそれを受けて一生懸命取り組むのが仕事。今週はずっとみんなが頑張ってたから片付けを手伝っていたけど、そういう出方になるなら一切やらん。ギブアンドテイク。プレーで余所に認められる選手であったとしても、こちらは推薦やらお断り。そこを履き違えた生徒が上で野球されたら困るから。こっちが手伝うのが当たり前、やるのが当たり前。俺らは練習したってるねんから、という考えであれば、そんなチームが強くなるはずがない。
そもそも、生徒が自分で使った道具や場所なのだから生徒自身がすべきだ、という声もおそらくある。僕はそう思わない。自分もここにいたのだから、自分のできることをする。ウチは人数が少ないので、正直なところ人手がいる。時間がかかっても生徒にさせよ、という人がいても結構。僕とは考え方が違うのであって、否定しない。いまの時点でのベストで僕は生徒と向き合っている。それだけの話。
新採用の頃、当時の校長先生からこんなことを聞いた。「杉本さん、グランドは体育の教師にとって教室やねん。だから体育教師には特別思い入れがあるんや」と。柔道の専門でいらした校長先生は体育科。室内競技の柔道の専門家が、プロの体育教師としてこうおっしゃった。だから道具の片付け忘れや、整地が甘いときなど、忸怩たる思いになる。指導の至らなさに申し訳なくなる。こんなことも生徒に話した。
ボールを使わない時間こそ、野球部の活動の真骨頂。ボールが動く時間はみんな必死になる。そうじゃない時間に、いかに真摯に取り組めるか。僕がいつも大切にしている考え方。
生徒目線で、という言葉はややもすると迎合になる。行き過ぎた生徒理解は「過寛容」にすぎない。こういう線引は教室でもある。ただそれがグランドで行われているだけ。教師と生徒は決定的に違うのだ。

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