2016年11月1日火曜日

「ペナルティとしての掃除」

苦い思い出がある。ウチはかつて忘れ物をしたら活動に参加させず、掃除をさせていた。平日のある日、レギュラークラスの真面目な子が活動に必要な道具を忘れ物。何を忘れたかは覚えていない。その日は例によって掃除。野球ノートに「今日は何にもプラスにならない一日だった。自分が忘れ物をするから悪い。次から気をつける」というような文面。その日からペナルティの掃除は一切やめた。もう3年くらい前の話。
どの学校でも、何か失敗があったときに懲罰的に掃除をしている姿を目にする。これは果たして意味があるのか。練習をさせてもらえず、掃除をしたくないから、好きな野球ができなくなるからそのペナルティに見合う反省ができるのか。卑屈になるだけではないか。
一方で、試合の日はまだ厳然とこのようなラインがある。忘れ物、遅刻に関してはゲームに出さない。試合の日に忘れるっていうことは公式戦でもやりかねない。試合の日に緊張感がなさすぎる。ここはいまだに僕の中では変わらない。出してやればきっと野球という面では上達するかもしれないが、大切な日に自分のミスで失敗しても許してもらえる、という「負の成功体験」(あえてこう表現したい)をしてしまう。試合は練習の延長。わかっている。でも試合の日は僕はまた違っていいと思っている。
日常生活で失敗をして、野球をやらせないことがある。でも僕は掃除はさせない。みんなの手伝いをさせたり、僕といっしょに何か違う活動をさせる。場合によってはそれが掃除になることもある。でもそれは「ペナルティ=掃除」という安直なものではない。教育効果を見込んでの活動。詭弁と思うならそうとってもらってもかまわない。
繰り返しになるが、ペナルティとしての掃除がいったいどういった教育効果があるのか。「身を清める」とかいう声が聞こえてきそうだが、やっている本人が自覚しているそれと意味合いが違う。掃除は概して面倒で、できればやりたくないもの。それを利用したペナルティ。指導者はすぐに生徒や選手をそのような方法で律そうとするが、生徒の失敗にしつこく付き合って「もうこのチームやこの人(先生)に迷惑をかけてはいけない」と思わせることが、本当にその子に必要なことではないか。
エースやキャプテン、主力が集合時間ギリギリに来るというのが僕は許せない。野球は9人いればできるスポーツ。でも、どの9人でやるのかということ。サブの子たちが「あれ、今日はあいつ来ないんかな」「おい、これって遅刻するんちゃうの?」と仲間に心配させて、しかもしれをたびたびやり、平然と直前に現れる。当たり前のように試合に出る。試合ではサブの子が遅れて登場し、ミスをして当たり前のように指導者に叱責される。遅刻ギリギリの「ヒーロー」はそこではいっさい非難されない。これって理不尽だと、僕は昔から思っている。
話がそれた。掃除はペナルティではなく、みんなでするもの。意味がわかって隅々までするもの。ペナルティの多くは、指導者の「言葉」で本来済むものが多いのではないか。チームに迷惑をかけたのであればみんなの前で謝罪させ、そのあとの行動でまた指導すれば良いのではないか。そこでのサボりは徹底して指導できることになる。安直に手を染めがちなペナルティとしての掃除。そうじゃない生徒への迫り方を最近良く考える。たぶんこんなことを言っている僕の姿は周りには甘く見える。特に部活動の世界では。でも、子どもの様子は変わっている。「言葉」や「会話」というものが、ペナルティに変わるものになりつつあるように、学校の部活動の現場にいながら思う。

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