今日も大会のお手伝い。ウチの生徒も不慣れながら少しだけ運営の補助をさせてもらった。大会は多くの人の協力のもとで成り立っているとあらためて実感した。
本部に詰めていると「中学生らしい良いチームやなあ」という言葉をたまに聞く。「たまに」というのは皮肉ではなく、本当になかなかお目にかかることができない。
行動が機敏であり、反応が正確。プレーに派手さはないが、ひたむきにボールに向かい、味方を応援する。劣勢でも常に鼓舞し続け、1点に歓喜する。こういうチームに勝ってほしいな、と思ってしまうようなチームだ。
ややもすると勝つことだけに価値がいき、球場の裏で取っ組み合ってふざけていたり、僕らの姿を見ても何の反応もしない。先生がこちらを一瞥しても会釈すらしない。残念ながらそういうチームもいる。
先日、新チームになったウチの子たちが学校で練習をしていた。僕はたまたま教室に用があったので廊下の窓から様子を眺めていた。すると、先生がグランドのそばを通っても、ほとんど反応していない。申し訳程度に「座りながら」あいさつをしている子も。ちょっと悲しくなった。
「暑いから休憩するのはもっともなこと。でも、立ち上がれないくらい疲れて、先生たちに挨拶ができないくらいだとすれば、挨拶ができるくらいの体力を残す練習をしなさい。いつお世話になるかわからない人に反応もできないのなら、そんな練習は単なる自己満足。そんなので勝っても値打ちはないんやで」
今日も良いチームがいた。勝ってほしいな、と思った。小手先でプロの真似をして勝っていくチームではなく、良識のある、中学生として応援したくなるようなチームに。この声が届くようになるまでどれくらい時間が必要かわからない。奇を衒って「常識を疑う」と喧伝して常識が蔑ろにされるのであればそんなものいらない。僕たちが接しているのは生徒だ。選手である前に生徒。そこの認識を忘れずにいたい。
高校野球の勝敗について、メディアがいろいろと報道している。美談は記事になる。ちょっと取材で行き来し、顧問と懇意だからといって身内面しようとする。ここの距離感を大事にしてほしい。どうしようもないときも僕らは毎日日常をともにしている。そういう人にしかわからないものがある。これは敬意の問題。
明日は球場で練習するよ、というと嬉しそうにしていた。そういう気持ちを大切にしてほしい。そして、大切にできる指導をしていきたい。「らしさ」は一日してならず。