あれこれ言う前に、結論から。
僕はそう思いたいし、教室と地続きだと思ってグランドで生徒たちと接しているので、日常生活と野球はつながっていると考えている。
最近この表題のフレーズが自分の中であやしい。本当にそうなのかな、という疑問。生徒の日常を僕らはどれほど知っているのか。学校での様子、保護者から漏れ聞こえる様子、友人たちから聞く様子。どれもこれも生徒の姿。生徒のミスを「あげつらって」、「だからエラーするんや!」と当てつけがましく生徒に注意する。もうこれに最近嫌気がさしてきている。まずその「日常」とやらに迫って生徒と向き合っているのか。授業で寝てる、忘れ物をする、注意に従わない。だからエラーするの?確かにそうかもしれない。でもそこに向き合って、生徒といっしょに付き合ってやっているのか。
僕は野球でいい場面が出たときに最近この「日常」を持ち出すようにしている。「野球でこんなにええ顔できるのになあ」というふうに。これも十分皮肉といえば皮肉。本当に向き合うべきは「日常」という守備範囲の広すぎる言葉を持ち出すのではなく、その子の課題自体。性格とか素性とか、指導者がどこまでその子のことをわかってやれているのか。日常の全てが否定されているように受け取る子もいる。
カリスマめいた抜群の技術指導を、しかも継続的に指導できる先生であれば生徒は絶対ついてくる。でも、どれほどの先生が可能でしょうか。少なくとも、僕はそれに関しては疑問符。明日も会議。でも、いまは公式戦の期間中。朝練?僕は朝練にあまり関心がない。理由は拙著(「部活動指導スタートブック」)に書いた。
一緒に野球がやれる時間を大切にできる生徒を育てる。空白だらけの指導に生徒は「ついてきている」のだという自戒。卑屈まではいきませんが、この認識が、僕が部活動の生徒と向き合う基本姿勢。ちょっとの時間でもノックを打ちたい。勝てば試合で出た足らずの練習も取り入れたい。そこで僕らは生徒の日常をどれほど知っているのか、というそもそもの話。
「野球部の教科書」も、もっとシンプルに生徒の気持ちのサイズに合わせた言葉を紡げるのではないかと思っている。「昨日も素振りに行ってたようです」という、応援に来られる保護者の方の一言にいつも反省する。日頃きちんと生活を送ってない子が野球で失敗する。誰でも失敗はあるんです。でも、いつもちゃんとしていない子にあてつけがましく注意するなら、心はきっと離れていくのでは、と。甘いかな。
生徒がもっと応援してもらえる部活動にしないと。ここはずっと僕の課題です。すべては野球につながっている。のか?という話でした。
0 件のコメント:
コメントを投稿