今日、背番号を渡した。初めて一桁をもらった生徒もいて、破顔一笑だった。僕も現役のときに、一度だけ一桁をもらったことがある。
中学生の頃、一塁手だった僕は、2年生になって自分たちのチームになったときに3番をもらった。出たり出なかったりだったので、正直複雑な気持ちだった。いま考えても、なぜあのときに一桁をもらえたのかわからない。
裏話がある。二人の顧問の先生の話を僕は聴いていた。
「杉本に3番あげようと思ってるねん」「そうですか、いいですね」「それでゲームには◯◯を出そうかなって」「それ僕も同じこと思っていました」かくして、僕は3番をもらったもののずっとベンチだった。何の意味をもった3番だったのだろう。
背番号が、ある意味の論功行賞の役割をするのはわかる。高校野球でも僕と同じような意味合いで背番号をもらった選手はきっといる。
僕は選手目線の背番号の抜擢をいつも考える。二桁は二次的な要素が絡まることもある。でも、一桁は絶対レギュラーであるべきだ。特に中学生に婉曲な、ドラマ的な要素はおおそよ汲み取ることは難しい。これを選手が無能だとかそんな議論にならないことは聡明な方だとわかる。額面通りの抜擢こそが愛情だと切に思う。選手として2番手、3番手なら、そう抜擢することこそ愛なのではないか。言い切ってもらえることで救われることもあると僕は思う。
一桁は誇り。重みはチームごとに違うかもしれない。でも、そのチームおいての一桁は唯一無二だ。胸を張ってゲームに臨んでほしい。そのチームに応じたサイズのドラマが存在するのだ。
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