2018年8月5日日曜日

「感謝」と「声」

今日の午前中は隣のブロックの合同練習に。ブロック加盟校が全部員を引き連れて参加。規律、統率、実直。このブロックはストイックに自分たちの普段の姿勢を問い直させるものだった。「感謝」というキーワードで今日の練習会は行われた。
「感謝をどういうふうに表現していくのか」という問いかけを、講師の先生が生徒にしていた。とても興味深い質問。「あいさつ」「声」と、生徒なりに考えて返答。僕ならどういうふうに「感謝」を体現するかな、と自問した。僕なら「行動で示す」と言うかな、と。「具体的にはどんな行動か」と問われたら「一生懸命にプレーすること」と答え、「どうすれば一生懸命プレーできるか」と問われたら「野球を好きになること」と答えるかなと一人で考えていた。
好きだから頑張れる。だとすれば、どうやったら好きになれるのか。僕らはそれに腐心しなければならないと思う。果たして、僕らは好きになれる活動をしているのか。勝ち負けに拘泥していないか。生徒のためと言いながら自分の理想の姿に当てはめようとしていないか。「心がない」という謂い。この手の発言をよく聞くけど、僕はとても危険に聞こえる。どんな生徒にも心はある。ないように感じるのは自身のアンテナの無さか。生徒に呼応する指導ができていないからだ。生徒に矢印を向けている間には顧問としての成長はきっとない。勝った負けたではなくて、教える者として。生徒に何を残せているのか、常に問える指導者でないとならない。
午後はウチのブロックの合同練習。同じ看板なのに様子が全然違う。こちらは秋のブロック選抜大会のプレ選考会。各チームから5名上限の限定参加だった。
「声出せよ!」とよく聞こえた。「声」は野球に不可欠。では、なぜ不可欠なのに出せないのか。ここに顧問のスポットは当たっているだろうか。やり直し、問い直しが常になるのは必要を感じていないからだろう。ではなぜ必要に感じないのか。そんなことをずっと考えていた。
感謝も、声も、本来なら外発的動機づけで強要されるべきものではない。だからこそ、自然に表出できる動機づけを。
若い先生方が必死に計画し実施された合同練習。僕に主だった仕事はなく、ずっとぼおっと眺めていた。生徒のサイズで伝えるのはもはや迎合ではなくて、時代の要請。グランドにいる顧問は真摯にこれについて考えていかないとな、と自分を含めて思った。良い先生たちの向かうべき方向。難しい。
上澄みだけが重用される部活動をもっともっと反省して、生徒の根っこに作用する指導をしていきたい。




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