2016年9月22日木曜日

「現場からの声を」〜「運動部活動の理論と実践」を読んで〜(長文です)


やっと読めるタイミングができたので読みました。たくさんの方が寄稿されていて、類書のなかでは多角的に論じられていると思います。現場の先生の発信もあり、予想以上に読めるなあという感想でした。率直な感想です(今回これを書くといろいろなところからお叱りを受けるかもしれません)
僕はこういう書籍を目にするたびに既視感を覚えます。桜宮の例の件が反省として枕にあり、そして今までのシゴキ、スパルタからの脱却ということで、それぞれのお立場から述べられている。もうこのパターンの文章をたくさん目にしてきました。そろそろどなたの論考からもそういうのは「もう、わかっているから」という感が否めません。いつもいつもそういうパターンではないのですが、もうそこは前提でいいのです。外部指導員が学校のことを十分わかったうえで部活動に従事するというのも確かにそう。こういう発信で現場が求めているのは「現場はどうなのか」ということです。
僕は教員養成の段階で、おそらく手薄だった「部活動指導者の育成」に関して一助になればと思い「部活動指導スタートブック」を書きました。今となっては目を覆いたくなるような部分もありますが、こういうのが「なかった」のが問題なのです。予算の使い方を学生さんは知っていますか。練習試合の相手がいなかったらどうするか。僕は日々部活動指導に従事しているので、こういう日常の問題(仕事)こそもっと明るみになって、多くの人が知るところになればいいと思います。
あまたある「部活動本」は研究者向けか、「目指せ全国!」という大看板ものです。どちらも現場の先生のニーズかといえば難しいところです。
難しさの原因は、部活動指導というものが研究の対象として扱われてこなかったことにあると思います。オリンピックを目指すようなトップアスリートの世界と部活動の世界が混同され、ややもすれば長時間の練習、涙ナミダの猛練習こそ情熱の形として認識されてきたのではないでしょうか。僕らの日常の部活動指導はそんなものではありません。
あるとき、大会の会場で顧問の先生に生徒が「なあ、今日はオレ何番打つん?」と先生に問うてます。「まだや、今から考えるから」と先生。「えー、一番にしてーや」とまた生徒。なんとも微笑ましい光景です。……って、なりますか。僕の感覚では全くなりません。学校の実情があり、しんどい子たちをなんとかして部活動に取り込んで頑張らせようということだと、当然理解しています。でもここで我々顧問がそんな子たちと向き合う(言葉は悪いですが「勝負する」)ことをしなければ、彼らはいつ、場に応じた行動をとれるようになるのでしょうか。「こら、ちゃんと敬語で質問しなあかんやろ」。ここで暴れだすような子たちと部活動の時間を過ごしている先生方がいるのを知っています。でも、こういうしんどさが、部活動指導という一括りの中に入っているのは紛れもない事実なのです。
ラフプレーや、ハードな声を相手からかけられ、生徒が同様することがあります。いつも話すのは「野球で勝とうや。同じ目線でやったらあかん」ということ。僕も腹が立ちます。でも、こういうのをちゃんと指導していない相手のベンチにダメなことだとわかっていてもどうしても腹が立ちます。もちろん、外には出しません。しんどい子たちと過ごす時間が辛いことは重々理解しているからです。
甲子園やインターハイだけが部活動ではなく、実はそういう世界こそ一部の世界であって、ほとんどの先生たちは「競技の技術まで行き着かない何か」と日々戦っています。メディアはほとんどがトップレベルしか報じません。大会があったら、会場を作る生徒がいます。雨なら前日からグランドにシートを引き、大雨のなかグランドの設営にかかる生徒たちがいます。それよりも早く出勤する先生もます。試合を控えたチームの先生も、保護者に連絡をしたり、このあとの練習をデザインしたり大忙し。ヒット1本で大歓声になるようなチームにも、そのチームのドラマがあります。授業や日常で関わっているからこそ、その1本にドラマを感じるのです。別に、感動が目的ではありません。結果的に、そうなるのです。もちろん、ドラマばかりではありません。大会の当日にエースが突然帰ってしまうチームもあります。僕らはそんな「ありえない」ことも呑み込んで日々子どもと向き合っています。
教員の仕事としての部活動というのがそろそろ制度疲労し、これじゃあかんということに気づき始めています。ただ、僕は学校の部活動というものが持っている教育効果にとても魅力を感じます。この世界も教員としての研鑽が必要な世界であり、授業と同じく自分が受けてきたものをそのまま提供するだけでは成り立たない世界です。外部指導員を登用してうまくいくところはいい。でも、学校の先生がやっているからうまくいく、より効果が上がることがあると思えてなりません。要は生徒をどう見つめているか、という教師の姿勢が最終的にことの善し悪しを決めていくものだと感じています。
家族との時間をどうしても持ちたい、というのに休日は休みなく部活動に出かける。それが当然の世界。金メダルの選手は雨の日も風の日も練習してきたのだ。授業の準備やテスト作成はいつやるのか。生徒は望まずとも家にいながらネットで友人たちとつながりをもたねばならず、また学校でも。アンダーグラウンドの生徒同士のトラブルが俎上にのぼる。また学校で指導する。部活動は当たり前のように活動しています。昔の先生はそれをやってきたんだ、と言っても、もう時代が違います。網目をくぐるような中、部活動の時間を紡いでいるのが実情ではないでしょうか。
だからこそ、少しでも現場発の声をあげていくのが大切です。僕がここにグループを作ったのはそこにも意味があります。
ちょっと逸れていまいましたが、この本はこれからの部活動指導、部活動のシステムを考えていく良い触媒になると思います。首肯するだけでなく、目にした現場の人たちがそれぞれのフィールド、環境で提案、発信してこそ意味のあるものになっていくと思います。勝たせる先生が素晴らしいなら、僕は全くの無能です。そうじゃない人たちの声が、これからの部活動を支えていくのだと感じています。「どうやるか」ではなく「やるかやらないか」なのです。

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