2016年10月30日日曜日

「日常生活は野球とつながっているのか」〜生徒の本当の日常とは〜

あれこれ言う前に、結論から。
僕はそう思いたいし、教室と地続きだと思ってグランドで生徒たちと接しているので、日常生活と野球はつながっていると考えている。
最近この表題のフレーズが自分の中であやしい。本当にそうなのかな、という疑問。生徒の日常を僕らはどれほど知っているのか。学校での様子、保護者から漏れ聞こえる様子、友人たちから聞く様子。どれもこれも生徒の姿。生徒のミスを「あげつらって」、「だからエラーするんや!」と当てつけがましく生徒に注意する。もうこれに最近嫌気がさしてきている。まずその「日常」とやらに迫って生徒と向き合っているのか。授業で寝てる、忘れ物をする、注意に従わない。だからエラーするの?確かにそうかもしれない。でもそこに向き合って、生徒といっしょに付き合ってやっているのか。
僕は野球でいい場面が出たときに最近この「日常」を持ち出すようにしている。「野球でこんなにええ顔できるのになあ」というふうに。これも十分皮肉といえば皮肉。本当に向き合うべきは「日常」という守備範囲の広すぎる言葉を持ち出すのではなく、その子の課題自体。性格とか素性とか、指導者がどこまでその子のことをわかってやれているのか。日常の全てが否定されているように受け取る子もいる。
カリスマめいた抜群の技術指導を、しかも継続的に指導できる先生であれば生徒は絶対ついてくる。でも、どれほどの先生が可能でしょうか。少なくとも、僕はそれに関しては疑問符。明日も会議。でも、いまは公式戦の期間中。朝練?僕は朝練にあまり関心がない。理由は拙著(「部活動指導スタートブック」)に書いた。
一緒に野球がやれる時間を大切にできる生徒を育てる。空白だらけの指導に生徒は「ついてきている」のだという自戒。卑屈まではいきませんが、この認識が、僕が部活動の生徒と向き合う基本姿勢。ちょっとの時間でもノックを打ちたい。勝てば試合で出た足らずの練習も取り入れたい。そこで僕らは生徒の日常をどれほど知っているのか、というそもそもの話。
「野球部の教科書」も、もっとシンプルに生徒の気持ちのサイズに合わせた言葉を紡げるのではないかと思っている。「昨日も素振りに行ってたようです」という、応援に来られる保護者の方の一言にいつも反省する。日頃きちんと生活を送ってない子が野球で失敗する。誰でも失敗はあるんです。でも、いつもちゃんとしていない子にあてつけがましく注意するなら、心はきっと離れていくのでは、と。甘いかな。
生徒がもっと応援してもらえる部活動にしないと。ここはずっと僕の課題です。すべては野球につながっている。のか?という話でした。

2016年10月18日火曜日

「部活動の外部委託で学校が失うもの」

【今回より文体をおおよそ常体に変えます】
基本的に僕は外部委託に賛成。きっとこれで救われる先生がたくさんいることだと思う。ただし、これによって既存の生徒指導の仕組みの一端がほころぶ可能性も同時にあるということをここで述べてみたい。
生徒と教育相談をしていると、やはり部活動のことが話題になる。多くの子たちは楽しんで部活動に参加しているとわかる。教室を離れて場合によったら異学年の先生に指導してもらう。これだけでも、生徒を見る目が一つ増えることになる。部活動の表情というのは、生徒を見ていくうえでとても重要な視点。勉強が苦手でもここで輝ける子がいる。ここで頑張って自信をつけて、日常の学習などに反映される子もいる。
もし部活動が外部委託になるとおそらく技術指導は充実していくと考えられる。面倒を見るだけ、みたいな部活動でいいのであれば誰でもできる。きっとそれに飽き足らない部がこれを求めていくことになるはず。ただ、そうなると部活動の表情は全くわからなくなる。「部活のときもちょっかいを出される」など、生徒にしたらわざわざ学校の部活動という場でその競技(ここではあえて運動部に限定して論及したい)をするわけだから、学校での出来事になる。生徒の見取りに聡い指導者であればまだ良いが、生徒の育成を「勝利」という視点でしか見られない指導者であれば生徒は厳しい。
生徒は絶対失敗する。ここで学校の日常を知っている者が話すのと、そうじゃないのとでは教育効果が違う。プロ野球選手に一流の技術指導を仰げても、我々は生徒と接するプロ。生徒の感情の機微や日常の変化など、生徒を連続した時間の中で見ていけるという、学校での部活動指導の最大のメリットがある。制度疲労を起こしているので、もはや改善の一途をたどるしかない部活動の現行システムで、完全に部活動を学校の活動から切り離せない最大要因はこれだと僕は考えている。要するに、生徒の様子を多くの目で見ている学校の先生が教えるから、生徒への細かい指導が可能になるということ。技術指導のことではない。生徒を育てるための指導のこと。外部の指導者が指導してくださるのはありがたいが、様子を聴く相手が増えることを忘れてはならない。丸投げできるのは実はほんの一部ではないかと考えている。社会教育のカテゴリーに委任するのであれば、もはやそれは「学校の部活動」ではなくなる。そうなって初めて教員の仕事から部活動が離れる。
会議や行事に追い立てまくられ、かつ日々の生徒指導。突発的な事案。授業準備、教材研究などのやり始めたら終わりがない先生の仕事の第一義。制度設計の見直しとともに、「本当にこれは必要なのか?」という会議や行事、取り組みなどの精査をもっと奨励すべきだ。減らすことが悪、サボりと見られがちな学校の活動で、惰性で続いている取り組みはおそらく多いのではないか。ここから先はこれを読まれる方の想像力にお願いしたい。
たとえば時間外勤務の手当や怪我や事故の責任の所在など、放置してはならない問題は山ほどある。その本格的な制度への手入れと学校の活動として機能してきた部活動の良い面を天秤にかけたとき、両者がバランス良く釣り合う制度が理想的。果たしてそれが可能なのかわからないけど、悪い面はある程度表面化してきたと思うので、ではなぜ部活動が根強く支持されるのか、というのを「生徒育成」という視点にシンプルに重点をおいて現場が発信していく時期にきていると思う。美談ではなく、日常のどこの学校でもある生徒の成長譚を。根性だけで全てが解決する時代は終わった。
教員の良心を阻害するような外野のざわめきで外部委託、および一連の問題を考えてほしくない。一教員の訴えです。

2016年10月7日金曜日

行事前の部活動

今日は午後から芸術鑑賞でした。今月末には文化活動発表会。いよいよ取り組みモードが本格化します。ウチは新チーム発足以来12人前後で活動しています。学年ごとの取り組みが始まると開店休業状態の野球部になります。ここのやりくりをどうしていくか、久しぶりにクラブ会議をやってみようと考えています。顧問がこうしなさい、ではうまくいきません。踏ん張り時。
ただ「生徒主導」というのは聞こえがいいだけで、何も教えていない集団に「主導」というのは酷な話。ここの指導がはっきり言ってウチのチームはまだやりきれていません。生徒が工夫してやっていくためには、日々の指導やゲームの中から頑張れる「素材」がなければ活かせません。しかも少人数。ちゃんとやれ、というのは顧問のエゴイズムです。日が落ちる時間が日に日に早まるなか、指導者の力量が試されています。

高校版 修学旅行に行ってきた

二泊三日の修学旅行を終えた。よかった。誰も損をしない行事になった。 ちょっと昔、修学旅行委員長に推した生徒がいた。引っ込み思案、でも、力がある。彼はやりたそうだったので、僕が推した。八面六臂、気配りや決断力があった。その彼をレクレーション大会のあと、みんなでサプライズで感謝の言葉...