2018年1月28日日曜日

「長いミーティング」



昨日、今日と小さな公式戦。6チームのトーナメント。昨日は快勝、今日は惜敗だった。
チーム内の様子がとても心配な二日間で、危なかっしい場面も。たぶんこういうところを指導していく必要があるのだな、という場面が散見した。試合の内容より、そういったお作法にものすごく気をつかう。
今日は帰りがけ、そのあたりを整理する長いミーティングをした。野球の失敗はグランドでしか取り返せないし、トータルで見たら失敗と言わなくていいものもある。でも、お作法や振る舞いでのエラーはただちに改めなけれらならないし、それを拒んだり乗り越えようとするならこちらは指導のレベルを上げていくことになる。それを望むのか、という迫り方。こっちだって本意じゃない。思うに、僕に寄りかかって甘えている。甘えや怠惰は関係を作っていくうえで峻別すべきで、寛容と迎合は別物。言いたいことを全部話した。怒気は含まずおだやかに。
久しぶりに長く話したあと、帰りの電車で4月に新入生を迎えて新しいメンバーで単独チームになるときにどこを守りたいか生徒と話しながら帰った。相談の中に僕もいた。やりたいやりたくない好きなことを言ってる中で、こうやってみんなが納得する形を作っていき、はみ出したら今日みたく形を整えていけばいい。そんなことを考えながらの帰路だった。技術指導を載せる前のテーブルが散らかっていては物を置けない。置いてもすぐ落ちる。今日はそんな日だった。
〈結果〉
H30.1.26
× 東我孫子 ◯ 7-0 5回コールド
H30.1.27
× 春日出 ● 0-3
来週は3位決定戦。北淀高校にて。寒風吹きすさぶ、雪が舞う中のゲームでした。

2018年1月21日日曜日

「今シーズン初試合」



いよいよ練習試合がはじまった。今日は大阪市でも東の果ての学校と兵庫県のチーム。久しぶりの試合だったのでみんな嬉しそうだった。ウチのキャプテンがずっと前向きな声を出していた。そういうことができるようになったのだな、と成長を感じる。僕はずっと審判。ひとつめ主審。ふたつめ二塁塁審。みっつめは一塁塁審。やりながら生徒に声をかけ続けた。
ウチは合同なので、監督はペアの先生に全権委任している。キャプテンももうひとつの学校。ウチのキャプテンは微妙と言えば微妙だが、同じようにみんなに声をかけている。今日は試合のあとで、キャプテン同士で話したらどうだと持ちかけた。審判をしながら見ていると、ウチのほうから声をかけていた。こうやって積み上がっていくのだな、と感じた。

これは批判ととられればそうかもしれないが、僕はこの合同チームの運用の仕方に疑問を持っている。一方で、見方を変えたら仕方ないという気持ちにもなる。合同チームはこの春まで。春の大会が終われば、新入部員をあわせて9人におそらくなる。なったらもう解散。夏から秋、冬、そして春を越えて、夏は違うチーム。ちょっと悲しいなと思う。せめて夏までは同じ子たちで、とも思うが、それは学校という枠組みでやっている以上、不可避な問題である。仕方ないけど、何かやるせない。あと2ヶ月あまり。
随所にいいプレーは見られた。でも僕は野球以外でたくさん注文を出した。それが生徒の本当の成長になるのだと信じ、それこそ覚悟を決めて、うるさいと思われてもやり抜こうと思う。
来週から小さな大会。はじめてなのでどうなるかわからないけど、みんながたくさん試合の経験をして、失敗して、悔しい思いをして、うまくなりたいと思って、明日を迎えられたら本当にうれしい。今年は野球の勉強をしっかりしたい。みんなで強くなりたい。いろんな人に教えてもらおうと思う。
(結果)
1 対 井高野中・西淀中 合同チーム ● 2−6
2 対 伊丹市立荒牧中 ● 0−7
荒牧中さんは強かった。聞くと地区では勝ち上がっていないそうで。兵庫県はレベルが高い。来週も頑張ります。

2018年1月18日木曜日

「労働問題としての部活動指導に疑問」

ある人から教えてもらった話。最近の部活動をめぐる報道は、こと労働問題としてのみ捉えられてピックアップされすぎていないか。ということ。かつて声を潜めていたサイレントマジョリティが、一つの突破口から溢れ出てもはやこの報道の大勢を占めるような格好になった。皮肉なことに、ひたむきに生徒と向き合っている人の声が今度はサイレントになり、声を上げずに悶々としている。そうじゃないだろう、と。
制止を振り切って話すと、部活動が生徒の成長にどれほど寄与してきたのか、果たしてどこまで「ひたむきに」研究されてきただろうか。労働問題として語られるときに、ここぞとばかりに僕らの時間外の仕事がなんでも違法だと言う声もある。僕はこんなの無視していいと思っている。できる人ができることを。それでいいはずなのに。我が子が小さいから土日はできない。こんな当たり前のことで、もし責め立てられる同僚がいたのならそれをカバーしきれない周囲にこそ問題があるのではないか。好きな人だけがやればいいのに。すいませんが、現状のほとんどはそうなっていますよ。定時に帰る先生を呪わしく思わないし、若い人にばかりしわ寄せがいく様子に隔靴掻痒でいる人もいる。部活動の研修会があったにせよ、参加して本当に声を上げてほしい人たちがそこにはいない。では誰がここで話しているのだろう。
脱線した。生徒が部活動を楽しみに登校してきて、授業で頑張って放課後に活動する。多忙化してほとんどの隙間のない放課後の時間を縫って顔を出す顧問。免罪符として週末に試合や少し長い時間の活動をし、生徒が枯渇している部分を潤す。こちらもつらくなるときもあるけど、やっているうちにできなかったことができてくる。うんざりすることもある。でも、この仕事って、そういうものなんじゃなかったのかとさえ思う。生徒がひたむきに打ち込む姿に、時間と体力と気力が許す限り一緒にいてやりたいと思う。立て込んでしんどいときもある。でも少し前に進めば嬉しいし、できなければやはりしんどい。この一進一退が部活動の醍醐味で、涙で試合を終えた生徒が笑顔で引退し、やっててよかったですと言って卒業していく。下手で怒られてばっかりだけど仲間がいたから頑張れたし、もっとやってみたいから続けたい。あの試合で負けたから、もっと真面目にやればよかったと後悔したから、好きになってしまったから。これから生きていく上で生きがいややりがい、自分のいろんなところに気づかせてくれる良い機会として、部活動は長らく学校の中で行われてきたのではないか。科学が発達し、情報が入りすぎて自分が向き合っている部活動や、生徒たちに対して、果たしてこんな形でいいのか不安になる。でも目の前に一生懸命頑張る子たちがいるから、少しでも力になってやりたい。
ただ昔より責任は重くなり、周囲の目も厳しい。外に出せば良い、時間を減らせばいい、やり方を見直せ。外に出せば外との調整で手を取られ、時間を減らせば自ずと中身を濃くせざるを得なくなり、やり方を見直そうとも良きモデルがいない。いたずらに外国のメソッドや海外の例が取り沙汰される。こんなことを眼前に曝されて、意気揚々と部活動指導に向かっていけるこれからの世代はどれくらいいるのだろうか。
だからこそ、今までの良さをもう一度見直し、学校がいま出来得る部活動の形を必死に考える時期ではないのだろうか。黙っていては下手に剪定された植木みたくなる。剪定するのは僕たちでなくてもいい。ただ「そこはダメだ」「こうしたほうが絶対にいい」と立ち会う人が必要だ。
声を上げ始めている新しいサイレントマジョリティの声を形にして、議論の俎上にあげていく。ほんの微力に過ぎないけど、そんな仕事に関わっていきたい。

2018年1月4日木曜日

「部活動改革の本丸は何か?」

僕は違うことを考えている。部活動は絶対に学校には必要だ。ただ、形は変わってしまってもいい。
部活動を完全に外に出すことは外の人はきっとそう言う。その上、しんどい思いをしている現場の先生もそれに賛同する。ここに異論はないし、当然の摂理だとも思う。
僕は15年ほど公立の中学校で働いているけど、良くも悪くも部活動の教育効果は大きいのを見てきた。もちろん、顧問の暴走や暴挙も。それと部活動をめぐる時代遅れの見方も。僕はこちらのほうが問題だと感じていて、そこに関する発信をしていくのが自分の立場なのだと最近わかるようになってきた。Twitterの訳のわからん連中に躍起にならず、正々堂々と自分の思っていることを話していきたい。
部活動のシステムに瑕疵(と言うべきか制度疲労と言うべきかわからない)があるのはもう隠せない。でも、無償でその競技や技術に触れられることは今までたくさんの生徒を育ててきたはずだ。加えて、一つの居場所として機能しているし、勉強の場面ではなかなか自分の力を活かせない生徒が良さを発露できる場としても。その生徒に関われる先生が多かったほうが多様な角度で生徒を見ることもできるし、他の学年であれば違う立ち位置だからこその声かけもできる。
僕は若い先生が「こうしなければならない」というものが、勝利至上であったり、顧問の機嫌で生徒に負担をより強いたりと、モデルケースにそろそろ時代遅れなものであることが問題だと思っている。「あいつはこれくらいやってもいい」とか勝手な思い込みで顧問が無茶をさせる。それをおもしろがって、違う学校の先生が自分のチームでも同じように生徒に強いる。「シメ方が足らんのや」とか言ってアホじゃないかと思うような怒鳴り方やペナルティを与えて恐怖で生徒を縛りつける。ひいては、その姿勢こそ「部活動顧問たるもの」と思い込まされて、キャラ違いの振る舞いをして自分をよりしんどくさせていく。土日、家族やプライベートを擲つのは当然で、その場にいないことが「非常識者」のレッテルを生徒、保護者だけでなく、同僚や関係者も同様にみなす。
僕はこれが部活動をめぐる問題で一番しんどいと考えている。僕がもしできることがあるとすれば、この違和感を共有して、できる人を増やして、それを共有すること。そして、もっといいやり方を考えていくこと。そして、それをきちんとした考え方として確立していくことなのだと思う。
改革の本丸は、甲子園大会に向かう際の異常な精神性にある。ずっとこれは僕が言ってきていることだ。「異常な」というのがポイントで、なんとかも味噌も同じみたいな発想で考えないでほしい。言いたいことはそうじゃない。普通のやり方で、無理はあってもきちんと休めて、学校の行事にも参加できて、場合によったら「これで大丈夫かな」と思うような気分転換もあって。命をかけるとか、本当にそういうことを軽々しく教育の現場に持ち込んでいいのかなと思ってしまう。これも先と同じで、趣味程度でやればいいとか言う意味じゃない。そういう姿勢で臨むのはあってもいいし、公言してもいいけど、今まで放置されてきた「無茶」にブレーキをかけて、違った方法や考え方でより良い結果を目指していく。これがこれからの部活動指導の求められるスタイルなのだと思う。
そう考えると、顧問を希望性でやっていくしかない。専門外の先生がもしその部をもつことがあっても、生徒や保護者は理不尽な攻撃をしてはいけないし、僕らはそういう同僚を守らなければいかない。そのために「これはどの部の先生もやらなあかんでしょ」「先生が部活動の指導者になるならこういう考え方でいなければあかんでしょ」というものを現場で実践している人が形にしていって、その中で時代遅れなものや学校の部活動は必ずしもプロを目指すものではないという考えなどを整理、修正していって、学校が出来得る部活動を作っていくことが急務だ。
外に出したらもう戻せない。ただ、絶対に先生は楽になる。でも、もうあの教育効果は得られない。ただ、それは学校の仕事じゃないかもしれない。
今こそ侃々諤々やればいい。やったことに喧々囂々言われるのは改革の黎明期には必然だ。
今年はもっとこの種の動きがあるだろう。渦中にいながら「これで本当にいいのか」ということを考えながら見ていきたい。補欠だった僕も何かの役に立てたらうれしい。

高校版 修学旅行に行ってきた

二泊三日の修学旅行を終えた。よかった。誰も損をしない行事になった。 ちょっと昔、修学旅行委員長に推した生徒がいた。引っ込み思案、でも、力がある。彼はやりたそうだったので、僕が推した。八面六臂、気配りや決断力があった。その彼をレクレーション大会のあと、みんなでサプライズで感謝の言葉...