2018年1月18日木曜日

「労働問題としての部活動指導に疑問」

ある人から教えてもらった話。最近の部活動をめぐる報道は、こと労働問題としてのみ捉えられてピックアップされすぎていないか。ということ。かつて声を潜めていたサイレントマジョリティが、一つの突破口から溢れ出てもはやこの報道の大勢を占めるような格好になった。皮肉なことに、ひたむきに生徒と向き合っている人の声が今度はサイレントになり、声を上げずに悶々としている。そうじゃないだろう、と。
制止を振り切って話すと、部活動が生徒の成長にどれほど寄与してきたのか、果たしてどこまで「ひたむきに」研究されてきただろうか。労働問題として語られるときに、ここぞとばかりに僕らの時間外の仕事がなんでも違法だと言う声もある。僕はこんなの無視していいと思っている。できる人ができることを。それでいいはずなのに。我が子が小さいから土日はできない。こんな当たり前のことで、もし責め立てられる同僚がいたのならそれをカバーしきれない周囲にこそ問題があるのではないか。好きな人だけがやればいいのに。すいませんが、現状のほとんどはそうなっていますよ。定時に帰る先生を呪わしく思わないし、若い人にばかりしわ寄せがいく様子に隔靴掻痒でいる人もいる。部活動の研修会があったにせよ、参加して本当に声を上げてほしい人たちがそこにはいない。では誰がここで話しているのだろう。
脱線した。生徒が部活動を楽しみに登校してきて、授業で頑張って放課後に活動する。多忙化してほとんどの隙間のない放課後の時間を縫って顔を出す顧問。免罪符として週末に試合や少し長い時間の活動をし、生徒が枯渇している部分を潤す。こちらもつらくなるときもあるけど、やっているうちにできなかったことができてくる。うんざりすることもある。でも、この仕事って、そういうものなんじゃなかったのかとさえ思う。生徒がひたむきに打ち込む姿に、時間と体力と気力が許す限り一緒にいてやりたいと思う。立て込んでしんどいときもある。でも少し前に進めば嬉しいし、できなければやはりしんどい。この一進一退が部活動の醍醐味で、涙で試合を終えた生徒が笑顔で引退し、やっててよかったですと言って卒業していく。下手で怒られてばっかりだけど仲間がいたから頑張れたし、もっとやってみたいから続けたい。あの試合で負けたから、もっと真面目にやればよかったと後悔したから、好きになってしまったから。これから生きていく上で生きがいややりがい、自分のいろんなところに気づかせてくれる良い機会として、部活動は長らく学校の中で行われてきたのではないか。科学が発達し、情報が入りすぎて自分が向き合っている部活動や、生徒たちに対して、果たしてこんな形でいいのか不安になる。でも目の前に一生懸命頑張る子たちがいるから、少しでも力になってやりたい。
ただ昔より責任は重くなり、周囲の目も厳しい。外に出せば良い、時間を減らせばいい、やり方を見直せ。外に出せば外との調整で手を取られ、時間を減らせば自ずと中身を濃くせざるを得なくなり、やり方を見直そうとも良きモデルがいない。いたずらに外国のメソッドや海外の例が取り沙汰される。こんなことを眼前に曝されて、意気揚々と部活動指導に向かっていけるこれからの世代はどれくらいいるのだろうか。
だからこそ、今までの良さをもう一度見直し、学校がいま出来得る部活動の形を必死に考える時期ではないのだろうか。黙っていては下手に剪定された植木みたくなる。剪定するのは僕たちでなくてもいい。ただ「そこはダメだ」「こうしたほうが絶対にいい」と立ち会う人が必要だ。
声を上げ始めている新しいサイレントマジョリティの声を形にして、議論の俎上にあげていく。ほんの微力に過ぎないけど、そんな仕事に関わっていきたい。

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