2018年1月4日木曜日

「部活動改革の本丸は何か?」

僕は違うことを考えている。部活動は絶対に学校には必要だ。ただ、形は変わってしまってもいい。
部活動を完全に外に出すことは外の人はきっとそう言う。その上、しんどい思いをしている現場の先生もそれに賛同する。ここに異論はないし、当然の摂理だとも思う。
僕は15年ほど公立の中学校で働いているけど、良くも悪くも部活動の教育効果は大きいのを見てきた。もちろん、顧問の暴走や暴挙も。それと部活動をめぐる時代遅れの見方も。僕はこちらのほうが問題だと感じていて、そこに関する発信をしていくのが自分の立場なのだと最近わかるようになってきた。Twitterの訳のわからん連中に躍起にならず、正々堂々と自分の思っていることを話していきたい。
部活動のシステムに瑕疵(と言うべきか制度疲労と言うべきかわからない)があるのはもう隠せない。でも、無償でその競技や技術に触れられることは今までたくさんの生徒を育ててきたはずだ。加えて、一つの居場所として機能しているし、勉強の場面ではなかなか自分の力を活かせない生徒が良さを発露できる場としても。その生徒に関われる先生が多かったほうが多様な角度で生徒を見ることもできるし、他の学年であれば違う立ち位置だからこその声かけもできる。
僕は若い先生が「こうしなければならない」というものが、勝利至上であったり、顧問の機嫌で生徒に負担をより強いたりと、モデルケースにそろそろ時代遅れなものであることが問題だと思っている。「あいつはこれくらいやってもいい」とか勝手な思い込みで顧問が無茶をさせる。それをおもしろがって、違う学校の先生が自分のチームでも同じように生徒に強いる。「シメ方が足らんのや」とか言ってアホじゃないかと思うような怒鳴り方やペナルティを与えて恐怖で生徒を縛りつける。ひいては、その姿勢こそ「部活動顧問たるもの」と思い込まされて、キャラ違いの振る舞いをして自分をよりしんどくさせていく。土日、家族やプライベートを擲つのは当然で、その場にいないことが「非常識者」のレッテルを生徒、保護者だけでなく、同僚や関係者も同様にみなす。
僕はこれが部活動をめぐる問題で一番しんどいと考えている。僕がもしできることがあるとすれば、この違和感を共有して、できる人を増やして、それを共有すること。そして、もっといいやり方を考えていくこと。そして、それをきちんとした考え方として確立していくことなのだと思う。
改革の本丸は、甲子園大会に向かう際の異常な精神性にある。ずっとこれは僕が言ってきていることだ。「異常な」というのがポイントで、なんとかも味噌も同じみたいな発想で考えないでほしい。言いたいことはそうじゃない。普通のやり方で、無理はあってもきちんと休めて、学校の行事にも参加できて、場合によったら「これで大丈夫かな」と思うような気分転換もあって。命をかけるとか、本当にそういうことを軽々しく教育の現場に持ち込んでいいのかなと思ってしまう。これも先と同じで、趣味程度でやればいいとか言う意味じゃない。そういう姿勢で臨むのはあってもいいし、公言してもいいけど、今まで放置されてきた「無茶」にブレーキをかけて、違った方法や考え方でより良い結果を目指していく。これがこれからの部活動指導の求められるスタイルなのだと思う。
そう考えると、顧問を希望性でやっていくしかない。専門外の先生がもしその部をもつことがあっても、生徒や保護者は理不尽な攻撃をしてはいけないし、僕らはそういう同僚を守らなければいかない。そのために「これはどの部の先生もやらなあかんでしょ」「先生が部活動の指導者になるならこういう考え方でいなければあかんでしょ」というものを現場で実践している人が形にしていって、その中で時代遅れなものや学校の部活動は必ずしもプロを目指すものではないという考えなどを整理、修正していって、学校が出来得る部活動を作っていくことが急務だ。
外に出したらもう戻せない。ただ、絶対に先生は楽になる。でも、もうあの教育効果は得られない。ただ、それは学校の仕事じゃないかもしれない。
今こそ侃々諤々やればいい。やったことに喧々囂々言われるのは改革の黎明期には必然だ。
今年はもっとこの種の動きがあるだろう。渦中にいながら「これで本当にいいのか」ということを考えながら見ていきたい。補欠だった僕も何かの役に立てたらうれしい。

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