2021年2月14日日曜日

監督のためのミーティング

 今日は受験組のために学校待機。練習はオフにしていたので、ずっと片付けだった。しまいこんでいたものを分別し、ほとんどを処分した。


そのなかで野球部のミーティング資料が出てきた。講義形式で一時やっていたので、いわゆるレジュメ。これがまあ、ひどいことひどいこと。前任校と、今の学校の初期の頃の分。


生徒のうまくいっていない部分をあげつらい、「だからうまくかない」と結果論でぶつ。これをやられると子どもたちは屈服するしかない。そう、屈服させるためのミーティングだったのだ。「こうするとうまくいくよ」がことごとく、印象、イメージ、抽象論。野球がシンプルにうまくなりたいと思う子には実に不親切なものだった。技術論が精神論にすり替えられ、得意の精神論で忠誠心や訴求力を高めていく。それもタチの悪いタイプのそれ。


これは一部の生徒からは求心力を得るが、不満に思う子が不信を募らせていくやり方だ。それも全然不思議なことではない。監督が自分のためにやっているだけだからだ。


ただ、自分の根っこにあるものの萌芽はあり、これが自分の指導の血肉になっていったのは間違いがない。それは生徒を「学校に順応するように」育てるためのもので、まだまだこれから生きていくための代物ではない。まるで監督が育つためのミーティングになっていることに、今ではすぐに気がつく。生徒の声がそこにない。それでは自己満足の域を出ない。メタ的に使い分けができていないと勘違い指導者がめでたくできあがる。危険な成長だ。


特に野球の技術論はYou Tubeで検索すると数千にものぼる動画がアップされている。これでは自分の考えや本来あるべき姿など埋没してしまう。ダシのとり方を知らない料理を見よう見真似で振る舞い、食べ方が違うとか首をかしげる様子に「わかってないなあ」とごちる。子どもを育てようという意識はそこにない。自分がいいカッコをしたいだけのものだ。


では、子どものため、生徒のためのミーティングとはどんなものだろう。そもそも、そういう必要があるか、それを求める集団になっているか。そこに視点をおかないと、監督のために子どもを集めてただ単にその時間を強いているだけになる。僕らは監督である前に、一人の教員であることを忘れてはいけない。選手と監督の前に、生徒と先生。そこを忘れると、勝ち負けだけに生きる自己中心的な暴君になる。自己陶酔型の指導者ほど見苦しい者はいない。


資料を職場に忘れたので今日はレジュメをアップしないが、またの機会に「なぜこのミーティング資料は良くないか」と分析してお示ししたい。


こういう指導者は子どもにとっては迷惑だ、という格好の例として、僕の至らなさを共有できたらと思います。授業でも先生が賢くなるだけの授業がありますよね…。

2021年2月11日木曜日

「みんな」の中の「個」


 今週は強めの練習をしている。プロ野球のキャンプのイメージで。昨日はたくさんトレーニングとダッシュ系、今日はたくさん振った。

多めのノルマを課し、あとは自分のペースで取り組んでいく。僕はこの営みのなかに、これから子どもたちが大人になっていく上でとても大切なことがあると感じている。

たくさんやるべきことがあるとき、コソッとサボりたくなる。サボりについては既述なのでここでは語らないが、自分に挑戦する自分を発見することが一番の目的だ。

みんな同じようにひいひい言いながらやっている。でもやっているのは自分。みんなのなかにいる自分は、どうここを乗り切るのか。みんながいるから個である自分を発見することができる。

強めの練習は一人ではできない。近頃、プロフェッショナルの世界では量の練習は否定されるが、型がないジュニア期の段階ではある程度必要だと僕は考えている。

漢字を書けない子が字の美しさに必死になる。確かにそれもいい。でも、まずはその字がかけることが大切であって、書けるから次の段階がある。そこでにじみ出る個性は否定しない。読めたらいいからだ。今はその「書ける」を目指している段階で、それをあえて「みんなで」「たくさん」やっている。

自分の可能性に挑戦する自分を、大人になるまでに発見できたら幸運だ。

「俺ってすぐやめてしまうよなあ」「みんなもやってるし、よっしゃもうちょっとやったるか」「しんどくなってきたからここは休もう」「あいつには負けたくないわ」

みんながいるから個があり、個の格闘の末に集団に属す自分がいる。格闘する自分。へこたれるし楽をしたいと思う自分。ここに行き着いたときに、次のドアが目の前に出てくる。

明日はオール個人練習。今週課した1500スイングの残りをしてもいいし、違うことをしてもいい。今の自分の課題を見つけて挑戦してほしい。またそのときに自分を見つめる自分と格闘してほしい。それだけです。

今週の土日はオフ。僕もみんなといっしょに休みたいと思います。

2021年2月6日土曜日

「飽きる」のは子どもじゃない


今日はかねてから続けているドリルの反復練習だった。

ゴロ、キャッチボール、スイング。とにかくドリルばかり。

以前教えていただいたものを、飽くまで繰り返し繰り返ししているのだけれど、生徒が「つまらんなあ」という表情をしたらすぐにやめてしまう人がいる。

これは生徒が飽きてきているのではなく、指導者の側が飽きてしまっているのだ。

そして指導者はすぐに精神論に走ってしまう。

「一生懸命さが足りない」だとか「気持ちが入っていない」とか、そう言ってしまう原因は、その活動の意味が理解できていないからに尽きる。だから自分の発信できるフィールドに持ってきてついやり込めてしまう。それでは生徒がやりたくなくなるのは当然だ。


そんなときは素直に、忠実にドリルの基本に立ち返る。そうすると自分が見落としていた基本動作や根本的な考えの誤りに気づく。この作業に耐えうるものだけが、生徒に提示してしかるべきメソッドだと思う。

「おいしいとこ取り」は生徒を苦しめるだけ。このドリルを教えてくださった方がおっしゃっていた。本当にそのとおりだ。

本質的な理解がないのに上辺だけで提示して、行き詰まったらまた違うやり方で。対処療法の繰り返しで、たまたまうまくいったのを誉め、うまくいかないのを叱る。そんなのは「卑怯」だとさえ思う。僕はずっと卑怯だった。もっと突き詰めないといけない。

生徒と探究する作業はこれからも続きます。


【今日のメニュー】

・アップ

・中庭でショートダッシュと30mダッシュ

・渡り廊下でシャトル打ち(兼スイングのドリル)

・キャッチボールのドリル

・ポジションノック(兼ゴロのドリル)とティーバッティング

・1打席バッティング ×3

・三角ベース(テニスボールで4アウト制の3イニング) 

2021年2月2日火曜日

「サボり」は放置せよ

 ラストメニューのインターバル走。今日は20本。


僕は使っていないところのグランド整備をしながら、生徒の様子を見ていた。そうするうちに「あと2本ちゃうやろ!」などと、本数の不正を暴くようなやりとりをしている。気になったけど、僕はずっと整備を続けた。


僕は基本的に「サボり」は放置する。注意しても意味がないからだ。


こういう現象に目くじら立てて、糾弾したところで誰が浮かばれるのだろう。


一番の根本原因は、指導者がそういう空気感を演出してしまっていることに尽きる。演出、というか、そういう場にしてしまっているのが原因。生徒は何も悪くない。


最後のミーティングで「サボりたければサボればいいよ。別に叱らんから。ただそれが、何のために、誰のためになっているのかを考えてほしい。サボって損をするのはそいつや。もっと言うと、そのサボりはチームの迷惑になる。そこまでいくと『20本ならこそっと自分だけもう2本多くやろう』って思えるチームが理想。サボるヤツなんか放っておいたらいいねん。そうやってみんなが頑張るチームになればいい。いいよ、数をカウントしていちいち指摘しないから。全部自分に返ってくるねん、そういうのは」と話した。


掃除をするときにしない、片付けも人任せ。そういう子を呼び立てて「おまえな」と、昔はやっていた。今は放置。もちろん、誰がやっていないかわかっている。でも、僕が言ってやり始める、頑張り始めたところでもう違う。そういうことをみんながわかったうえで活動してほしい。


サボりに反応しない。そういう空気にならないように、指導者は仕掛けをつくり、声をかけたのだろうか。「サボったらペナルティ」「数をウソついたら◯◯」とか、そういう縛りで頑張ったところで知れている。懲罰で人は動かないし、サボって逃げる人が将来うまくやっていけるはずがない。その場を凌ぐのは技術。でもそれが生き方になってはいけない。


「サボり」は放置。好きなだけサボってください。勝負するところはそこじゃないのです。

高校版 修学旅行に行ってきた

二泊三日の修学旅行を終えた。よかった。誰も損をしない行事になった。 ちょっと昔、修学旅行委員長に推した生徒がいた。引っ込み思案、でも、力がある。彼はやりたそうだったので、僕が推した。八面六臂、気配りや決断力があった。その彼をレクレーション大会のあと、みんなでサプライズで感謝の言葉...