2016年3月10日木曜日

「あの子」がいる空間

先日、Facebookの自分のタイムラインに投稿したものに補完してコピペいたします。
いま学校現場では、昔なら「変わった子」「何かよくわからないことをする子」「付き合い方が難しい子」などと言われて周りに煙たがられていた子をいかに集団に取り込んでいくか、ということに力を注いでいます。
「あの子、変わっているよね」と言われる「あの子」。現代では、しかるべき検査や診断を受ければ適切な関わりができるようになってきました。医療の進歩や教育的見地の成熟などがその理由です。大きな声でその言動を制止されてパニックになったり、不必要な刺激のせいで落ち着かなくなったりする「あの子」に、部活動の現場は、野球、スポーツの場面できちんと関わっているだろうか。こういう子とどのように関わり、どのように集団に取り込んでその集団を成熟させていくか。学校はいまそういうことにも気を配っております。
昨日の投稿は、教室に一定数いるであろう「あの子」が、当然部活動の現場にも存在している、ということを述べたものでした。「あの子」とは、特定の誰かではなく、「他の子とは違ったアプローチをしてやらねばならない『あの子』」という意味です。そこをおわかりいただいたうえで、以下の投稿をお読みいただけたらと思います。学校現場ではないところで野球の指導をされているみなさんのチームにも「あの子」はいませんか?
(以下転載)
時折タイムラインでも話題になる「あの子」。教室に必ずいるとなると、当然部活動の現場でも「あの子」はいる。クラスでの位置付け、居場所作りがたいへんなのはとてもわかるし、それで一年が終わっていくこともあるんやろなとも思う。部活動の空間は、野球ならグランドだろうし、バスケなら体育館。座席もないし、授業によって態度が変わるとかそんなこともない。でも、間違いないのは見ていられる時間。教室なら否が応でも目に入るし、中学校であろうが教室に教師が不在になるのは休み時間くらい。(もちろん、その休み時間以外も完全に目が行き届いているわけではありません)
目が行き届かない時間が「あって当然」の活動時間のなかで「あの子」をどう組織の中で生活させるか。この頃、これが気になって仕方がない。何かあれば当然我々顧問が駆けつけるわけだけど、そうならないためにどうするか、ということにどれだけ心を砕いているかは非常に重要だと思う。邪慳にされてもいけない。かと言って特別扱いもどうか、と。最近は特別扱いはあっていいように思っている。エコひいきではなく、特別扱い。関西でいうところの「ごまめ」(幼い子が年上の子と遊ぶときに特別扱いしてもらってリスクを減らしてもらうこと)にならない特別扱い。そこまですると今度は「あの子」の自尊心に傷がつく。組織の成熟は、技術的なところでいう「強い」とか「弱い」とかではなく、「あの子」を含めていかに自分たちで良いチームになっていけるか、良い練習ができるかということに前向きな姿勢にある。
勝ち負け、技術の巧拙に完全に埋もれてしまう「あの子」の存在。ここらを含めた組織の成熟が僕の理想です。

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