2017年9月30日土曜日

「幽霊部員について」

幽霊部員という言葉は死語かもしれない。いずれ言葉が変わっていくだろう、この幽霊部員だが、どこの学校でも必ずいる。この幽霊部員をめぐってトラブルがたえない。拙著にも提案したが、放置するからトラブルになる。積極的に関わるのが適切な、しかるべき指導だと考える。
たとえば体育大会のクラブ行進や卒業アルバムの撮影などで、気まずそうにしている生徒を見たことはないだろうか。全然部活に行っていないから自分の身の処し方がわからない。もうひとつ言うと、顧問もそれをそのままにしている。待っている、ということになるのかもしれないが、生徒から顧問に歩み寄ってくることはまずありえない。それなのに、放置してしまっているのが誤解のもとであるし、保護者からしたら「同じ学校にいててなぜ声をかけてくれないか」という話になる。ましてや同じ学年だと特にそうなる。
ここで保護者から説明を求められても、言い訳ととられるだけ。僕が新任の頃、保護者への対処が当日なら「説明」、次の日になると「言い訳」となると教わった。言葉遊びかもしれないが、教育は「今日行く」ことだ、という話。この図式にあてはめていくと、長く部活に参加していない生徒に関わらないのは顧問の仕事としては物足りないものだと思う。
僕は野球部で幽霊部員を長い時間かかえた経験がない。僕自身がもやもやするので、そうなりそうならきちんと話し合ってやめさせた。勝手にいなくなった子にも声をかけてお互い気まずい時間を過ごさなくていいようにした。やんちゃな生徒が縛りに耐えられず、部活を続けられないことがある。こういうときもこっちから関わって正式に退部させてきた。もっと若い頃はこのあたりがあいまいで悶々とした時間を過ごしたことがある。僕もそうだったし、生徒もきっと心地悪かったと思う。気持ちよく生徒には登校させてやりたい。
外部のスポーツチームなら幽霊部員は実質存在しえない。対価を払って指導を受ける以上、お金を払っているのに来ない子を放置することはありえないからだ。無償の外部組織であるなら、ひょっとしたらありえる話かもしれないが、指導者が学校関係者であければそれぞれのアプローチになるはずだ。
でもこれが学校の部活動なら大いにありうる。新任の先生や若い先生がこういう生徒を放置してしまうことがあるが、周りや学年の先生が提言して正式に手続きをさせてやらなければならない。いずれ学校への不信感になり、そのひずみはどこかで日々の業務に間違いなく跳ね返ってくる。「こういうときは自分からきちんと話にくるべきだ」というのは顧問の瑕疵。そういうことができる生徒が幽霊部員になるはずがない。何か後ろめたいところがあって部活に足が進まなくなる。保護者が知らないケースもある。こういう動きこそ、学校の部活動ならではの動きだと言える。
こういった、技術指導に行きつくまでの丁寧な指導のあり方がもっと研究されていいと思う。顧問の独自採算にせず、担任業務と同等に学年や学校あげてきちんと取り組んでいくべきだ。現場と研究の密接な連携が望まれる。部活動経営の一要素の事案だと僕は考える。

2017年9月27日水曜日

「個人練習は順調さのバロメータ」

ミスは嫌だ。試合で「また同じミスを」とか「これは準備してなかったな」とか、そういうことを言い出したら野球はどれだけ時間があっても足りない。でも、任せる。
ウチの野球部は現在5人。それでも練習のラストには30分ほどの「個人練習」を課している。自主練ではない。自主練は、やってもやらなくてもいいという読み方もできる。違う。枠は与える。その時間内に何をやってもいいというもの。
今日のラスト。ある子はテニスボールで実践打撃。横でピッチング。向こうで走り込み。僕はバッティングの守備。5人がそれぞれやっている。生徒がやりたいと思う練習が、こっちのやってほしい練習になるのが理想。提案すればきっとやる。でも、なまじ提案はしない。試合のあとに「こういう練習が必要やったな」と、染み込みやすいタイミングで話す。野球ノートにはそのような振り返りの文字が目立つ。で、それが週の練習に反映されていたら◎。でもこれがなかなかうまくいかない。アドバイス直後はやる。でも、週の中、終わりになると結局自分のやりたい練習になってしまう。切実さが忘れられ、ぼんやりと自分のやりたいことにしか目がいかなくなる。こうなると僕は自分の声かけがまだまだだと感じる。
個人練習の様子は、チームの力のバロメータ。うまくいっているときは各々、やるべきことに向き合っている。ある子が言っていた。小学校時代はいろいろ教えてもらったけど、中学は何をするか考えないといけない、と。だからと言って、小学校時代の練習を否定しない。それのおかげで、いまのパフォーマンスがある。理想は、技術が未熟な子にできる子が教えてやっている風景であり、未熟な子が上手い子に質問できるような環境。もっと上積みを望むときは難しいことをどんどん提案し挑戦させる。やってみよかな、と向けるのが僕の仕事。
僕がいないとできない生徒になってほしくない。でも現実はそううまくいかない。それをわかった上で全部任せるときもある。僕は何もしていないように見える。これで力がついていけば。まだまだ途上。人間力とか、命を懸けるとか、否定はしないけど、生徒の日常の文脈に落とし込めているか、指導者は敏感であるのか。勝てば官軍。敵はその考え方。それは学校にはなじまないのです。

2017年9月15日金曜日

「他学年のチーム」

これも自分の問題意識。僕の実感だが、自分の学年のチームはまず部員数が多い。それと、思い入れが違う。加えて、直接見ているという強みで生徒と関われる。何年に一回かだけど、自分の学年のチームはまた違う気持ちで関わる。これはどう取り繕ってもウソはつけない。
一方で、他学年がメインとなったチームは、指導はいつもどおりすれど、どこまで染み込んでいるのか実感しづらい。常勝チームならいい。伝統が生徒を引っ張ってくれるから。伝統も実績もない普通のチームで、他学年の子たちといっしょに部活動をしていく難しさはあまり言語化されていない。明らかに顧問の接し方、関わり方が違う。
他学年の子たちと心理的な距離を縮めようとするなら、授業に行くのが一番良い。見学ではなく、授業をしに行く。でもこれは無理な話。そもそも、部活動がメインにある教師の動きだ。違う。日常の授業や取り組みがあって、かたわらに部活動がある。ここの認識がおかしい人が、現場には多い。自分の部に所属する生徒の全部を知っている気でいる。あまり言いたくないけど、年長の先生にこの傾向は強い。生徒は後光で動いている。それに気づいていない。生徒は目の前では常に従順。そうではないドロドロとした部分に目を向けて、曝け出させて勝負している先生に僕は心から尊敬する。威厳なんかいらない。生徒が「この先生についていけば大丈夫」と思うには、怒声もいらないし、膨大な時間が必要なわけでもない。すーっと、生徒の心に迫る切り込み方が出来ているか。僕はここが絶対的に足りていない。
生徒をわかっているというのは明らかに教師のおごりだ。わかろうとすることが大切なのに、わかった気でいて失敗、ミス、エラーがあったら現象面だけに目を向け指導する。それでは生徒は後ろを向いてベロを出している。出されて悔しい、というのは思い上がりで、きっとそんなもんだと思う。これだけ部活動以外の刺激がある生活のなかで、没頭させようとするには怒声でも、威厳でも、膨大な時間でもない。
生徒が向き合いたいと思える環境をつくること。自分の学年のようにかわいがる。他学年だからわからない、というのはおごりでもあり、真理でもある。そこを自覚してから初めて、生徒の心に迫れる指導ができるのだ。

「日常生活」という言葉が形骸化していないか?

日常生活(学校や家庭での態度)を大切にしない者は上達しない。よくこんな発言を目にする。でも本当にそんなことを思って指導している部活動の顧問はどれくらいいるのだろう。競技の技術を高めるために日常生活を利用しているのではないか。学校で行う活動なのに、それだけを目的とするのは非常に違和感がある。日常生活を大切に、という言葉が安請け合いされていて、本当にそんなことを考えているのか、と疑問に思うことがある。顧問なら誰でも言える言葉だし、言っている言葉だ。僕自身、本当に日常生活を大切にしたらうまくなるのか、無理にこじつけていないだろうかといつも疑問を持ちながらやっている。自分のやっていることが本当に子どもたちにプラスになっているのか、ということ。Facebookのいいね!みたいに反射的にこの言葉に飛びついて使っているだけなら、生徒の根っこにまで毎日の声かけは届かない。僕が言いたいことは、今のところやっぱり「日常生活を大切にしない者は上達しない」ということになるのだけど、確実に違う言葉を必要としている。それがまたしっくりくる言葉が思い当たらないし、見つかっていない。ここが本当に苦しくて、練習やら試合やらをやっている。怒声の中プレーし、顧問のカタルシスに付き合わされる生徒たち。言葉では日常生活とか言いながら、技術の巧拙だけで活躍の場面を判断される。もっと違う言葉を。出てこないなら出てくるまで考えるしかない。何件か「野球部の教科書」の問い合わせをいただいて、すぐに返信。この苦悶まで届けられたらいいなと思いながら、ファイルを届けている。

2017年9月12日火曜日

「夏休み明けの生徒の姿とは」

新チームで過ごした夏休みが終わり、2学期の日常が始まると、途端に魔法が切れたように生徒がうまくいかなくなることがある。特にしんどい学校などはそうだ。
夏休みは顧問の指導のもと、張り詰めた時間を過ごす。曲がりなりにも、好きなことに触れている時間で一日が終わる。確かに体力的にはしんどい。でも試合に出たい、勝ちたい、うまくなりたいという気持ちが徐々に大きくなり、いつのまにか2学期になる。そして2学期になると、授業、友人、係の仕事、清掃、取り組みと、生徒の日常に戻っていき、やがて部活動が生徒の日常の一部であったことを思いだす。さっきまではそれが日常だったのに。ここに意識の歪みができ、思うように授業や学年の動きに溶け込んでいけない。部活にのみ打ち込んでいた純粋性が日々のよもやまに薄められ、夏休み中の頑張り、踏ん張りとは違う姿になる。よろしくない友人と交友がある生徒は、やはりこういう子たちとまたつるむようになるので、見る陰もなくなる。
2年生の夏を終えたのに、なぜ急速に意欲を失っていくのか。憧れていた恒常的に試合に出るということが叶えられ、技術的なところの物足りなさに無関心になり、日常の遊びのほうがおもしろくなってしまったり、楽な方に流れたりする。そういう子がいても全然珍しいものではない。
「夏休みは一生懸命やってたんですけどね」と漏れ聞こえる声。そんなの当たり前の話で、それしかない生活だからそうなっていたまでの話。僕は性悪説を元来とらないが、生徒に関しては「そういうもの」と思っている。善とか悪とかじゃなくて、そういうもの。どれだけいい子でも、2学期のはじめのうちはしんどいのだ。
こういうときにどうやってガスを抜いてやるのか。猛スピードで駆け抜けた夏はもう終わった。どうしても日本のスポーツは量で活動の善悪を捉えがちだ。でも、日常の一部に戻った彼らの生活のなかで、部活動に純粋に打ち込んでいってもらうためには矛盾した言い方になるが、一気に環境を取り上げることだと思う。延々とあった時間をよりシビアに切る。秋は日が短い。雨も多い。そんな日にいたずらにだらだらとしない。土日、休みを入れるのも適切。生徒も疲れるのだ。
教師にとっても9月は正念場。落ち着いた学校、学級でも、荒れる要素はそこかしこにある。現象が変わり、空気が変わってきたらそれを生徒に伝えることが大切。ここで教師が疲れるとややもすると大声で現象を止めてしまい、傷口にガムテープを貼るような処置になる。「そういうもの」と僕は思っているので、9月は声をかける前に、みる。クラスも野球部も、今までとは違う姿になっている。その差異は何か。だいたい、こうなってほしいというイメージとは違っているもの。だからこそ、みる。
最近はそんなふうに思って、生徒のなかにいる。

2017年9月7日木曜日

中学野球太郎

「中学野球太郎」に記事を掲載していただきました。「野球部の教科書」を取り上げてもらっています。ありがとうございました。




2017年9月3日日曜日

「マスク越しのゲーム」

今日も練習試合。昨日と今日と、プレートアンパイア(PL)を務める。特に今日は2試合。涼しいから大したことなかった。
良いアンパイアは良い選手を育てる、と審判の偉い先生に教えていただいたことがある。いっこうに僕はうまくならないけど、生徒にはうまくなってほしい。PLをやりながらいろんなことを生徒に話す。まずキャッチャー。バッターとの距離が近すぎてケガをするかもしれない。「近いで。もうちょっと後ろおり(注:いなさい)」バッターに「今のは外の球やから逆方向に打たないと」など、敵味方関係なくぶつぶつ話す。これがなかなかおもしろい。
僕は合同チームで部長扱いなので、生徒への主な声かけは監督先生に任せている。僕は後方支援といったところ。今日も監督先生が2試合目PLにいくということだったけど、僕が2試合目もいくと申し出た。PLしながらでも生徒に声をかけられると思ったので。
今日の相手校は同じブロックのチーム。こちらにも頑張ってほしい。監督先生や生徒にこっちにも声をかける。みんなうまくなるならそれが一番。
審判の練習にもなるし、目の前で生徒の様子がわかるから審判をしながらでもおもしろい。合同チームは大人が多いからこういう立ち位置も悪くない。このあたりはまたどこかでまとめたい。
ベンチの様子も僕には勉強の材料。生徒より僕のほうが良い経験させてもらっているとさえ思う。マスク越しでも指導はできるみたいです。

高校版 修学旅行に行ってきた

二泊三日の修学旅行を終えた。よかった。誰も損をしない行事になった。 ちょっと昔、修学旅行委員長に推した生徒がいた。引っ込み思案、でも、力がある。彼はやりたそうだったので、僕が推した。八面六臂、気配りや決断力があった。その彼をレクレーション大会のあと、みんなでサプライズで感謝の言葉...