2017年6月29日木曜日

「部活動指導者としての学校の先生」

 先日「教師教育を考える会」のメルマガに拙稿を載せていただきました。ここでの話題にしても問題ないと思いましたので、転載します。ぜひ、ご批判、ご指導いただけたらと思います。ちょっと長いですが、よろしくお願いいたします。
(追記)
「教師教育」という言葉をはじめてお聴きになる方もいるかもしれません。近年にわかに注目され始めているOJTによらない、教師の成長を考えていく研究分野です。若輩者ではありますが、私見を述べております。
1.丸腰で部活動指導をさせられる若い先生
 大阪市の中学校で、野球部の顧問をして15年めになりました。
 僕は典型的な「野球を教えたくて先生になった」クチで、採用と同時に野球部の顧問になりました。他の部の経験はなく、すぐに自分の専門の野球を教えられる立場となりました。
 中学校の現場では、若い先生は部活動の顧問(特に運動部)に充てがわれます。経験の有無は関係なし。若いというだけで担当が決まります。
 「◯◯先生の代わりに来た先生、若い人やから◯◯先生のあとに陸上部任せたらいいね」などと、その先生の「部活動顧問としての専門性」が話題になります。
 学校にとっても、ある部の顧問が抜けて次の顧問をどうするのか、というのは学校の体制を左右しかねない大きな人事案件と言えます。
 しかし、部活動指導に関しては、養成段階での勉強があるわけでもなく、若い先生方が部活動指導で悩むのも無理ありません。
 「野球部でいじめ事象があった」「サッカー部で万引きがあった」「バスケット部が遠征移動中に電車で迷惑行為があった」などなど、こんな情報は耳を塞いでいても入ってくるものです。
 3学年の担任になる部活動顧問。若い先生が丸腰でうまくいくはずがないのです。
 現在、教育実習生が本校に来ています。彼らに聞いても、部活動指導について、大学であまり学ぶ機会がないそうです。
 僕も自分が受けてきた指導を焼き直したり、先輩から教えてもらったりしてその知識を得てきました。指導の方法や教師のあり方は、今思うと当初の自分のイメージとはずいぶんかけ離れたものでした。
 僕はそんな問題意識から、本を書かせてもらいました。『部活動指導スタートブックー怒鳴らずチームを強くする組織づくり入門ー』(明治図書出版,2015)と銘打ったその本は、部活動顧問を夢見る学生、なりたての若い先生方をイメージして書いたものです。
 この本は「どうやって部活動という組織を作っていくのか」ということに焦点を当てています。学校をめぐるあらゆる仕事のうちの、どの部分に部活動が位置するのか、どういうふうに部活動顧問業をとらえたらいいのか。こういう現場の「当たり前」を顕在化させたという特徴があります。
 学級経営や教科指導の本はあまた出版されているなかで、普通の部活動指導に関する本はほとんどなかったように思います。
 多くは「目指せ全国!」「勝つための……」といった、一足飛びの印象を免れない趣旨のものばかりです。僕が知っている限りでは、若い先生はそんなところまで行き着いていないのです。
 「学ぶ場がないならつくればいい」ということで、複雑な問題が散見する部活動指導について、先日学習会を持ちました。大学生も多数参加してくれました。関心の高まりを感じました。
 現場でも、部活動指導について積極的に研究は進んできていなかった現状があります。生徒指導の一環としての認識はあったものの、「ではどのようにしてなされるべきか」ということについては、いままさに普遍的な価値観が見直されてきている時期といえます。
2.部活動指導は「独自採算」
 部活動指導は、はっきりとした「独自採算」です。教師は毎日あらゆるリスクを負いながら放課後の部活動に従事しています。
 たとえば、「部のトラブルは部で解決を」といった暗黙の了解があります。確かに、部の責任は顧問かもしれない。
 でも、若い先生がそんな臨機応変にトラブルに対処できません。経験がなさすぎる上に、先述したようにそういったことをほとんど学ぶ機会がなかったのです。仮にそれがあったにせよ、現場で起こる指導事象は実に多岐にわたります。ひとつずつ対処していくためには、やはり現場での経験がモノを言います。
 部活動をめぐる諸問題は、ネットだけでなく世間を騒がせています。体罰、長時間勤務、連勤など。現場の人間からすれば「やっと出てきたか」と思う限りです。部動をめぐる現状は複雑なものなのです。訴訟も起きています。そんな重責を一手に担わなければいけないということを、教師を目指す学生たちは、どれほど自覚しているでしょうか。
 一方で、すべてが顧問の責任となるのも困ります。
 現場では、非常に微妙なバランスで、あまりそうしたことを考えずに、部活動指導が行われています。重責を前にして、部活動顧問から逃げ出したくなるのも当たり前です。
 逃げる……。こういう感覚が中学校の現場にはあります。何も「逃げ出した」わけではなく、自分にはできないと判断した、ある意味では、賢明な選択かもしれません。
 勝たねばならない、休んではならない、求めに応えなければならない。
 そんな縛りにも、経験の乏しい先生は苦しんでいます。
 いずれにしても、現状では、中学校教員から部活動指導を除くことはできません。立て込んだ指導には関知しない、自分の部を若い先生に任せて定時に退勤…そういうベテランの先生もたくさんいますが、ベテランの先生も若い先生も、本来は同じ責任を担っているはずです。
 生活指導に関しても、ベテラン教員はきっと若い先生よりも長けている。生徒指導のノウハウもない若い先生にとって、部活動指導は負担でしかありません。 
 
 若い先生が過剰に部活動指導に時間を割かれずに、授業や教室づくりの力を磨いていくためには、部活動指導へのベテランの参画は大変重要です。
3.「地続きの指導」の提唱
 嬉々として、専門の部活動を持てた先生はどうでしょうか。昔気質の威圧的な姿勢で生徒に向き合っていないでしょうか。今日的な部活動指導のあり方は、もっと議論されてもいいと僕は考えます。
 学級において、失敗した生徒をやり込めますか。もしやりすぎていたら、隣のクラスの先生や学年の先生がたしなめるはずでしょう。
 よく「生徒になめられてはいけない」と聞きます。ベテランの先生方ならクリアしてきたであろう方法知が、思うように伝達されていないのです。
 しかも時代の要請も変わってきています。
 学級をどうしていくか。授業をどう組み立てていくか。4月にはどんなふうに声をかけるのか。こういった視点を部活動指導にも採用していくと、すべきことがわかってきます。
 養成段階や若い先生にどうやってそれを知ってもらうのか。その部分の発信こそ、僕の問題意識そのものです。
 部内で折り合いがつかず、辞める子がいたとしましょう。本人、保護者、顧問が納得していても現状では「挫折体験」として生徒には残ってしまいがちです。『辞めたらあかん』という縛りが生徒を苦しめる現状もあります。
 「熱血」のイメージが、学校における部活動指導をおかしなものにしてしまっています。
 いまだにグランドに怒声が響きます。そんな先生は、教室でも事あるごとに怒鳴っているのでしょうか。
 「グランドでは人が変わる」とうそぶく先生がいます。そんなのは生徒にとって迷惑でしかありません。教室では優しいのに、グランドでは毎日怒って……。耳に痛い方もいらっしゃると思います。無理もありません。
 それが現状であり、昔からのやり方です。
 僕はこういう現状を見て、「地続きの指導」というものを拙著以降、提唱しています。
 「グランドと教室はつながっている」というのがこの考えの基礎。
 グランドと教室がつながっているのであれば、同じように生徒と接すればいい。いろいろな子がいる教室で、どうにかして所属感を高めようと考えたり、起こる問題をみんなで考えたり。多くの先生は苦心して良い学級を作っておられます。
 授業も然り。生徒のミスに毎回怒鳴って指導していますか。きっと違います。
 「そんなふうにしたら生徒になめられるのでは?」上下関係でとらえるとそういうことも言えるかもしれません。でも、信頼関係という視点で考えると、粘り強く声をかけて、できないことをできるように助けたり、同じことで何度も注意したり。教室ではそんな光景は当たり前のはず。でもグランドではそうじゃないのです。
 金メダルをとるために、厳しい指導を受けているジュニア世代を目にします。メディアは、こぞってそういう報道を繰り返します。
 ただそれはそういう活動であるということがわかって指導を受けているのであって、プロフェッショナルを育成する機関としては部活動の場面は不向きだと考えます。
 第一、毎日指導にべったりつくことはできません。初心者の子もいます。
 朝練? 僕はいらないと考えます。生徒の本分は授業です。お弁当を用意できない家庭もあります。そんなことを知らずに、勝つことを第一目標としてやってしまったら、保護者の理解はえられません。
 授業で寝ている自分の部の生徒がいたら「たるんどるな。ペナルティで走らせよう」と。生徒目線で考えたら眠くなるのは当たり前です。朝食をとらずに朝練に来ていたかもしれません。ぱっと思いつくだけでも、数々の背景が想像できます。
 『どうやったらいいかわからない穏健派』『自分のやり方でとにかく突っ走る熱血派』。
 いずれも適切な指導はできません。学校の部活動がどういうものか、よくわかっていないからだと思います。
 わからないからといって放置するのも考えものです。
 また、ペナルティで縛り上げるのは、外聞や体裁を気にする顧問のエゴイズムに他なりません。
4.「ブラック部活動論」のこと
 最後に、いま何かと話題になっている「ブラック部活動論」について、述べておきたいと思います。
 部活動の顧問は非常に膨大な時間的な拘束があります。土日に活動、しかも一日中。例をあげれば枚挙にいとまがありません。家庭事情もありますし、健康状態もあります。何かを犠牲にしていると思った時点でその活動スタイルは破綻しています。
 異常なまでの過熱は確かに考えものなのですが、僕は一連の動きをとても冷静に見ています。というのも「中学校の先生ってそういう仕事じゃないの?」と思うからです。
 ただ、だから現状を全て受け容れなさいということではありません。
「そういう仕事」の中身が問題です。
 語弊を恐れず言えば、部活動が完全に学校現場からなくならない限り、同様の現象は回避できないでしょう。変えなければならないのは制度の前に「考え方」や「あり方」です。
 高校野球の甲子園大会に見られる精神性は、部活動というものの非常にわかりやすい例だと僕は考えます。ひたむきに打ち込む子どもの姿は見る人の感動を誘い、ドラマや美談として語られます。
 僕はこのような「何もかもを犠牲にして打ち込む」という姿勢が、果たして学校の現場に向くものなのかと懐疑的な見方をしています。そこまでじゃないのに……、という一定の層がもはや入っていけない世界になっているのです。
 僕が関わっている中学校の野球部の世界でも丸坊主がずいぶんと減ってきました。ここでは詳述しませんが、要するに世間が「気づいてきている」のだと僕は感じています。
 プロフェッショナルや全国を目指すような、そういう活動がもちろんあってもいいと思います。ただ、そればかりではない、そうじゃなくていい、という考え方がそろそろ学校の部活動の現場に入ってきてもいいのではないかと。
 顧問がまず指導すべきは、生徒としての一人前。学業はそっちのけ、掃除もロクにしない、行事にも非協力的。こんな生徒がいくら大会に勝ち進んでいこうが、僕は何の値打ちもないと思います。
 いまのような時代だからこそ、「学校の教育活動としての部活動」というものをもう一度見直し、今までは言いにくかった「勝つことよりも大切なもの」を声高に言うべきだと考えます。
 だから必ずしも土日に活動しなくてもいいし、もちろんしてもいい。スケジュールやタイムマネジメントは顧問の裁量に最大限に委ねられるのが理想です。
 そこまでなって、はじめて多少の時間のオーバーは、致し方ないと個人的には思います。現行のシステムのままでは、ますます不都合が出続けるとでしょう。
 システムの変遷は僕の関心事です。学校の部活動の目的が明確になれば、生徒の側も選択に幅が出るのではないでしょうか。ちょっと違うな、と思う人は外のチームへ。学校の部活動に関わる者としては「こういう形でしかできません」と言い切る活動にしていきたい。そう思います。
 現在21連勤の真っ只中です。現場から「学校だからできる部活動のあり方」を発信し続けていきます。
 初心者の子が引退をかけた試合で、タイムリーヒットを打ちました。駆けつけてくれた保護者が、泣きそうな顔で僕に感謝の言葉をくださりました。卓球部から移ってきた生徒でした。本人も笑顔で引退していきました。
 それぞれの部に、それぞれのドラマがあります。厳しい社会の中で、学校くらいはその子の全てを受け入れる場であってもいいのではないでしょうか。
 僕は専門でやってきた部の指導をしています。
 技術指導の聖域に守られて指導を続けてこられたことに自覚的でないと、教員志望の学生や若い先生には偏った形で伝わります。僕としては、いまここに自分の問題意識が移りつつあります。
 教えられない人でもできる指導がきっとある。目指すはそういう指導のあり方です。専門外の先生がいかに「部活動指導者」でいられるか、いるために何が大切なのか。
 学校と学校外との役割分担がなされたら、いよいよ本格的に職務の精選とマインドの共有(もしくは住み分け)が始まることと思います。
 学校の部活動の目的がますます注目されるなかで、先生にしかできない、学校にしかできない部活動指導というものを、教員志望の学生や若い先生たちと考えていきたいと思っています。

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