2017年6月29日木曜日

「部活動で主体的な活動は可能か?」

今日はテスト最終日。割と長く活動ができる日。今日は30分を一区切りとした練習メニューを提案した。昼食をとっている間に生徒に考えさせる。15:00までの活動と決めていたので、12:00から6つのコマがある。ランチの時間にいろいろと決めていたようだった。
はじめはノック。続いてランナーつき。バッティング、ケースバッティング、実戦形式の3イニングマッチ。キャプテンが指示して、休憩や給水、ノッカーを僕らに委託するなど、おもしろい采配ぶりで練習をコントロールしていた。テスト明けなのでしんどそうな場面もあったが、それぞれの課題に向き合って活動していたように見えた。
15:00になり、全体練習終了。ここで終わるのもOKとした。結果的に数人は帰宅したが、ほとんどの生徒は残って自主練習していた。帰った生徒を責めるような姑息なことは考えていない。生徒を値踏みするような、踏み絵的な「自主練習」であれば生徒を苦しめるものでしかない。別にここに縛りをかける必要はない。
いつもなら個人練習としているので、帰ることは許されない。でも今日は帰ってもいい。だとすれば、純粋に残って練習に励む子たちはポジティブにとらえていいはずで、サボタージュに対しては厳しく対処しても良くなる。サボりにペナルティを与えるわけでもないが、暗黙の了解のなかで生徒は自分の練習に課題に向き合っていた。
生徒に完全に活動内容を委任した主体的な活動は可能か。僕は「そういう活動のトライ&エラーをさせてきた上でなら可能」と感じる。いきなり「今日は自分たちで考えてやりなさい」というのは無理。丸投げするのは愛ではない。自分たちで考えた活動が単に「やりたい練習」であるならちょっと違う。「やるべき練習」であるなら黙って見ていればいい。最初は指示も必要であろうが、枠だけ与えて考えて活動することに慣れてくれば、なんなり練習してみようという気になるようだ。
野球は驚くほどの多数のケースが存在する。これを全部カバーしようとするのはかなりの時間と労力と気力がいる。技術も必要。果たしてどこまでできるものだろうか。ネットで、ライバル校の調査をし、研究して練習に臨み、連日22時くらいまでの練習も辞さない、というある学校の実践例を見た。それって学校がする部活動なのだろうか。そういう世界があってもいい。でも普通の中学生にそれがどこまで可能か。先のネットの記事に「勉強になりました!」とか感じている先生がいたとすれば、僕はこういう事態はゆゆしきことだと思う。何か違うと思う。
主体的な活動は、主庭的に考える練習を重ねて、失敗や回数を重ねて初めて成る。委任と放任を履き違えて、何でもかんでも生徒に任せてしまうのは指導ではない。今日の練習でちょっとそんなことを考えていた。
教室で生徒に任せるとき、何の前提もなく為されることはない。顧問はいるだけでいい、というのが僕の考える理想の形なのです。

「部活動指導者としての学校の先生」

 先日「教師教育を考える会」のメルマガに拙稿を載せていただきました。ここでの話題にしても問題ないと思いましたので、転載します。ぜひ、ご批判、ご指導いただけたらと思います。ちょっと長いですが、よろしくお願いいたします。
(追記)
「教師教育」という言葉をはじめてお聴きになる方もいるかもしれません。近年にわかに注目され始めているOJTによらない、教師の成長を考えていく研究分野です。若輩者ではありますが、私見を述べております。
1.丸腰で部活動指導をさせられる若い先生
 大阪市の中学校で、野球部の顧問をして15年めになりました。
 僕は典型的な「野球を教えたくて先生になった」クチで、採用と同時に野球部の顧問になりました。他の部の経験はなく、すぐに自分の専門の野球を教えられる立場となりました。
 中学校の現場では、若い先生は部活動の顧問(特に運動部)に充てがわれます。経験の有無は関係なし。若いというだけで担当が決まります。
 「◯◯先生の代わりに来た先生、若い人やから◯◯先生のあとに陸上部任せたらいいね」などと、その先生の「部活動顧問としての専門性」が話題になります。
 学校にとっても、ある部の顧問が抜けて次の顧問をどうするのか、というのは学校の体制を左右しかねない大きな人事案件と言えます。
 しかし、部活動指導に関しては、養成段階での勉強があるわけでもなく、若い先生方が部活動指導で悩むのも無理ありません。
 「野球部でいじめ事象があった」「サッカー部で万引きがあった」「バスケット部が遠征移動中に電車で迷惑行為があった」などなど、こんな情報は耳を塞いでいても入ってくるものです。
 3学年の担任になる部活動顧問。若い先生が丸腰でうまくいくはずがないのです。
 現在、教育実習生が本校に来ています。彼らに聞いても、部活動指導について、大学であまり学ぶ機会がないそうです。
 僕も自分が受けてきた指導を焼き直したり、先輩から教えてもらったりしてその知識を得てきました。指導の方法や教師のあり方は、今思うと当初の自分のイメージとはずいぶんかけ離れたものでした。
 僕はそんな問題意識から、本を書かせてもらいました。『部活動指導スタートブックー怒鳴らずチームを強くする組織づくり入門ー』(明治図書出版,2015)と銘打ったその本は、部活動顧問を夢見る学生、なりたての若い先生方をイメージして書いたものです。
 この本は「どうやって部活動という組織を作っていくのか」ということに焦点を当てています。学校をめぐるあらゆる仕事のうちの、どの部分に部活動が位置するのか、どういうふうに部活動顧問業をとらえたらいいのか。こういう現場の「当たり前」を顕在化させたという特徴があります。
 学級経営や教科指導の本はあまた出版されているなかで、普通の部活動指導に関する本はほとんどなかったように思います。
 多くは「目指せ全国!」「勝つための……」といった、一足飛びの印象を免れない趣旨のものばかりです。僕が知っている限りでは、若い先生はそんなところまで行き着いていないのです。
 「学ぶ場がないならつくればいい」ということで、複雑な問題が散見する部活動指導について、先日学習会を持ちました。大学生も多数参加してくれました。関心の高まりを感じました。
 現場でも、部活動指導について積極的に研究は進んできていなかった現状があります。生徒指導の一環としての認識はあったものの、「ではどのようにしてなされるべきか」ということについては、いままさに普遍的な価値観が見直されてきている時期といえます。
2.部活動指導は「独自採算」
 部活動指導は、はっきりとした「独自採算」です。教師は毎日あらゆるリスクを負いながら放課後の部活動に従事しています。
 たとえば、「部のトラブルは部で解決を」といった暗黙の了解があります。確かに、部の責任は顧問かもしれない。
 でも、若い先生がそんな臨機応変にトラブルに対処できません。経験がなさすぎる上に、先述したようにそういったことをほとんど学ぶ機会がなかったのです。仮にそれがあったにせよ、現場で起こる指導事象は実に多岐にわたります。ひとつずつ対処していくためには、やはり現場での経験がモノを言います。
 部活動をめぐる諸問題は、ネットだけでなく世間を騒がせています。体罰、長時間勤務、連勤など。現場の人間からすれば「やっと出てきたか」と思う限りです。部動をめぐる現状は複雑なものなのです。訴訟も起きています。そんな重責を一手に担わなければいけないということを、教師を目指す学生たちは、どれほど自覚しているでしょうか。
 一方で、すべてが顧問の責任となるのも困ります。
 現場では、非常に微妙なバランスで、あまりそうしたことを考えずに、部活動指導が行われています。重責を前にして、部活動顧問から逃げ出したくなるのも当たり前です。
 逃げる……。こういう感覚が中学校の現場にはあります。何も「逃げ出した」わけではなく、自分にはできないと判断した、ある意味では、賢明な選択かもしれません。
 勝たねばならない、休んではならない、求めに応えなければならない。
 そんな縛りにも、経験の乏しい先生は苦しんでいます。
 いずれにしても、現状では、中学校教員から部活動指導を除くことはできません。立て込んだ指導には関知しない、自分の部を若い先生に任せて定時に退勤…そういうベテランの先生もたくさんいますが、ベテランの先生も若い先生も、本来は同じ責任を担っているはずです。
 生活指導に関しても、ベテラン教員はきっと若い先生よりも長けている。生徒指導のノウハウもない若い先生にとって、部活動指導は負担でしかありません。 
 
 若い先生が過剰に部活動指導に時間を割かれずに、授業や教室づくりの力を磨いていくためには、部活動指導へのベテランの参画は大変重要です。
3.「地続きの指導」の提唱
 嬉々として、専門の部活動を持てた先生はどうでしょうか。昔気質の威圧的な姿勢で生徒に向き合っていないでしょうか。今日的な部活動指導のあり方は、もっと議論されてもいいと僕は考えます。
 学級において、失敗した生徒をやり込めますか。もしやりすぎていたら、隣のクラスの先生や学年の先生がたしなめるはずでしょう。
 よく「生徒になめられてはいけない」と聞きます。ベテランの先生方ならクリアしてきたであろう方法知が、思うように伝達されていないのです。
 しかも時代の要請も変わってきています。
 学級をどうしていくか。授業をどう組み立てていくか。4月にはどんなふうに声をかけるのか。こういった視点を部活動指導にも採用していくと、すべきことがわかってきます。
 養成段階や若い先生にどうやってそれを知ってもらうのか。その部分の発信こそ、僕の問題意識そのものです。
 部内で折り合いがつかず、辞める子がいたとしましょう。本人、保護者、顧問が納得していても現状では「挫折体験」として生徒には残ってしまいがちです。『辞めたらあかん』という縛りが生徒を苦しめる現状もあります。
 「熱血」のイメージが、学校における部活動指導をおかしなものにしてしまっています。
 いまだにグランドに怒声が響きます。そんな先生は、教室でも事あるごとに怒鳴っているのでしょうか。
 「グランドでは人が変わる」とうそぶく先生がいます。そんなのは生徒にとって迷惑でしかありません。教室では優しいのに、グランドでは毎日怒って……。耳に痛い方もいらっしゃると思います。無理もありません。
 それが現状であり、昔からのやり方です。
 僕はこういう現状を見て、「地続きの指導」というものを拙著以降、提唱しています。
 「グランドと教室はつながっている」というのがこの考えの基礎。
 グランドと教室がつながっているのであれば、同じように生徒と接すればいい。いろいろな子がいる教室で、どうにかして所属感を高めようと考えたり、起こる問題をみんなで考えたり。多くの先生は苦心して良い学級を作っておられます。
 授業も然り。生徒のミスに毎回怒鳴って指導していますか。きっと違います。
 「そんなふうにしたら生徒になめられるのでは?」上下関係でとらえるとそういうことも言えるかもしれません。でも、信頼関係という視点で考えると、粘り強く声をかけて、できないことをできるように助けたり、同じことで何度も注意したり。教室ではそんな光景は当たり前のはず。でもグランドではそうじゃないのです。
 金メダルをとるために、厳しい指導を受けているジュニア世代を目にします。メディアは、こぞってそういう報道を繰り返します。
 ただそれはそういう活動であるということがわかって指導を受けているのであって、プロフェッショナルを育成する機関としては部活動の場面は不向きだと考えます。
 第一、毎日指導にべったりつくことはできません。初心者の子もいます。
 朝練? 僕はいらないと考えます。生徒の本分は授業です。お弁当を用意できない家庭もあります。そんなことを知らずに、勝つことを第一目標としてやってしまったら、保護者の理解はえられません。
 授業で寝ている自分の部の生徒がいたら「たるんどるな。ペナルティで走らせよう」と。生徒目線で考えたら眠くなるのは当たり前です。朝食をとらずに朝練に来ていたかもしれません。ぱっと思いつくだけでも、数々の背景が想像できます。
 『どうやったらいいかわからない穏健派』『自分のやり方でとにかく突っ走る熱血派』。
 いずれも適切な指導はできません。学校の部活動がどういうものか、よくわかっていないからだと思います。
 わからないからといって放置するのも考えものです。
 また、ペナルティで縛り上げるのは、外聞や体裁を気にする顧問のエゴイズムに他なりません。
4.「ブラック部活動論」のこと
 最後に、いま何かと話題になっている「ブラック部活動論」について、述べておきたいと思います。
 部活動の顧問は非常に膨大な時間的な拘束があります。土日に活動、しかも一日中。例をあげれば枚挙にいとまがありません。家庭事情もありますし、健康状態もあります。何かを犠牲にしていると思った時点でその活動スタイルは破綻しています。
 異常なまでの過熱は確かに考えものなのですが、僕は一連の動きをとても冷静に見ています。というのも「中学校の先生ってそういう仕事じゃないの?」と思うからです。
 ただ、だから現状を全て受け容れなさいということではありません。
「そういう仕事」の中身が問題です。
 語弊を恐れず言えば、部活動が完全に学校現場からなくならない限り、同様の現象は回避できないでしょう。変えなければならないのは制度の前に「考え方」や「あり方」です。
 高校野球の甲子園大会に見られる精神性は、部活動というものの非常にわかりやすい例だと僕は考えます。ひたむきに打ち込む子どもの姿は見る人の感動を誘い、ドラマや美談として語られます。
 僕はこのような「何もかもを犠牲にして打ち込む」という姿勢が、果たして学校の現場に向くものなのかと懐疑的な見方をしています。そこまでじゃないのに……、という一定の層がもはや入っていけない世界になっているのです。
 僕が関わっている中学校の野球部の世界でも丸坊主がずいぶんと減ってきました。ここでは詳述しませんが、要するに世間が「気づいてきている」のだと僕は感じています。
 プロフェッショナルや全国を目指すような、そういう活動がもちろんあってもいいと思います。ただ、そればかりではない、そうじゃなくていい、という考え方がそろそろ学校の部活動の現場に入ってきてもいいのではないかと。
 顧問がまず指導すべきは、生徒としての一人前。学業はそっちのけ、掃除もロクにしない、行事にも非協力的。こんな生徒がいくら大会に勝ち進んでいこうが、僕は何の値打ちもないと思います。
 いまのような時代だからこそ、「学校の教育活動としての部活動」というものをもう一度見直し、今までは言いにくかった「勝つことよりも大切なもの」を声高に言うべきだと考えます。
 だから必ずしも土日に活動しなくてもいいし、もちろんしてもいい。スケジュールやタイムマネジメントは顧問の裁量に最大限に委ねられるのが理想です。
 そこまでなって、はじめて多少の時間のオーバーは、致し方ないと個人的には思います。現行のシステムのままでは、ますます不都合が出続けるとでしょう。
 システムの変遷は僕の関心事です。学校の部活動の目的が明確になれば、生徒の側も選択に幅が出るのではないでしょうか。ちょっと違うな、と思う人は外のチームへ。学校の部活動に関わる者としては「こういう形でしかできません」と言い切る活動にしていきたい。そう思います。
 現在21連勤の真っ只中です。現場から「学校だからできる部活動のあり方」を発信し続けていきます。
 初心者の子が引退をかけた試合で、タイムリーヒットを打ちました。駆けつけてくれた保護者が、泣きそうな顔で僕に感謝の言葉をくださりました。卓球部から移ってきた生徒でした。本人も笑顔で引退していきました。
 それぞれの部に、それぞれのドラマがあります。厳しい社会の中で、学校くらいはその子の全てを受け入れる場であってもいいのではないでしょうか。
 僕は専門でやってきた部の指導をしています。
 技術指導の聖域に守られて指導を続けてこられたことに自覚的でないと、教員志望の学生や若い先生には偏った形で伝わります。僕としては、いまここに自分の問題意識が移りつつあります。
 教えられない人でもできる指導がきっとある。目指すはそういう指導のあり方です。専門外の先生がいかに「部活動指導者」でいられるか、いるために何が大切なのか。
 学校と学校外との役割分担がなされたら、いよいよ本格的に職務の精選とマインドの共有(もしくは住み分け)が始まることと思います。
 学校の部活動の目的がますます注目されるなかで、先生にしかできない、学校にしかできない部活動指導というものを、教員志望の学生や若い先生たちと考えていきたいと思っています。

2017年6月11日日曜日

「『野球部らしく』の弊害」 〜いまどきの部活動指導論としての一提案〜

今週は土日のゲーム。体調不良の子がいたり、所用で抜ける子がいたりと、昨日は11人、今日は9人で活動。この時点ですでにしんどい。
連日、エース不在。その日のベスト、というのが僕のポリシーだけどエースがいないというのはどう気持ちを整理しても大きい。でもその分、いつもと違うポジションを務めたり、普段出る機会が少ない子が試合経験を積めたりと、それ相応の楽しみがある。昨日は午後、今日は午前の活動。
昨日は2回で5失点。やはりうまくいかない。敗戦ムードがすでに漂う。相手チームはギャラリーで沸き返り、こちらに憐憫の情をもつ人がいただろう様子。しんどかった。僕はどれだけしんどいゲームでも大逆転をしてきたゲームを何度も見てきた。こと、夏の大会はそう。この日も序盤に大量リードを許しはしたが、ここからどれくらい巻き返せるかと考えていた。こんなのはキレイゴト。やっている生徒はほとんど無抵抗。でも、僕のそういう言葉に呼応してくれる子がいる。ここから巻き返して10ー6で逆転勝ちした。ビッグイニングを作って流れを引き戻した。良い経験になった。2つめもよく打った。良い部分がたくさん出た。
今日は9人。やりくりがやっぱりしんどい。1つめは競り負けで敗戦。2つめは序盤リードを守って逃げ切り。でもムードが盛り上がらない。ここで「元気出せよ!」「声な!」とハッパをかけるも、やはりいまひとつ。結局疲れが抜け切れていないのが生徒のパフォーマンスを下げた大きな理由だと思う。体力がないとか、覇気がないとか、きっと生徒もわかっている。目に見えてリウ現象で生徒を評価するのはハードなことだと思う。
「杉本先生の思っている感じではないのではないですか」と話の中で出た。きっと緩慢な様子に見えたのだと思う。キビキビして大きな声で、というのは理想だけど、少ない人数で9人でやりくりしている中でどこまでその「理想的なキビキビ」を求めるかというのに、関心が向く。健気に全力で向き合おうとする生徒の姿は確かに理想。ただ、理想のために実を見ないまま名をとるのはもういいかなと思って、あまりうるさく言わなかった。こんな日もある。僕は別にそれくらいでいいと思う。
「野球部とは?」「野球道とは?」「肚を決めて」「死ぬ気になって」など、僕も野球をやってきたので憧れるフレーズ。でも線で生徒の日常を捉えると、そこまで縛り上げなくてもいいのではないかと思う。高校は甲子園がある。甲子園はドラマになるけど、それがいろんなものを見えなくしているのも事実。野球だけやっていればいい、甲子園に出るためには何でもする、って、本当にそんなことで良いのかと思う。
野球人口が減っている。サッカーをやろうとするのと、野球をしようとするのと、初心者がそれらに向き合うモチベーションがあきらかに違う。野球もそろそろ大企業体制を卒業したほうがいい。野球のすべてが甲子園につながっていくというような、変な縛りは日本の野球にとって弊害でしかない。
いてる子たちで、やれることを。僕も勝ちたい。でもそれは生徒と野球を楽しみたいから。勝つための野球も僕にとっては勉強していかないといけない分野。でも学校の部活動はそうじゃなくていい。そうじゃないからできている子たちが、やってよかったと思えな中学校の野球部の活動はリスキーだ。生ぬるいとか甘いとか、別にそんなの気にならない。来週もひとつずつ重ねていく。それだけです。
〈結果〉
H29.610 ✕田辺
① 10−6  ◯
② 14ー6 ◯
H29.6.11 ✕佃
① 2−5 ✕
② 7−5 ◯
来週末は練習とゲーム。玉出中にお世話になります。残すはゲームは玉出中さんと高井田中さんとの二つ。佳境です。

2017年6月6日火曜日

「副顧問論」〜勝負どころはいつか〜

1 専門外で若い
2 専門外でベテラン
3 専門で若い
4 専門でベテラン
新年度になって、副顧問となった先生方にはいろんなパターンがある。4ははっきり言って問題ない。問題はそれ以外。2も問題はないかもしれない。2の場合であれば、ほとんどノータッチ、ということが多い。
副顧問の先生は実に難しい。経験の有無は措いておいて、主顧問と同じようなことをしようとしたり、それを越えようとしたりすると、たちまち生徒から不信を買うことになる。つつましくせよ、というわけではない。その立場相応の関わりを心がけないと組織としてうまく立ち行かない。
特に難しいと感じるのは、ずっと学校にいたけど今年からその部を見るようになったパターン。今までの関係性をイメージして子どもたちは関わってくるのに、教師の側はそれではうまくいかないことが多い。利害が生じない関係は楽やし、楽しい。
仲良し先生は生徒には心地よい。でも、心地よいだけで何も残らない。清涼飲料のようなもので、栄養にならない。ここを一歩踏み込むのか否か、これは目指す教師像による。ただ、実はここが自覚できず、苦しんでいる先生は意外と多いように思う。
本気で向き合おうとしたら、正面衝突する日は必ずある。これを乗り越えないと、生徒と本当に良い人間関係を気づいていくことは不可能だと断言できる。トップダウン式の、いわゆる「オラオラ」ではない。そんなの大人の特権を振りかざしているだけで、僕から言わせたら卑怯なやり方。
許せないことがあれば、場合によっては感情的になってもいい。そうとさえ思う。これが単に勝ち負けに向かうためのそれであれば、僕がここで言いたいこととは違う。もっと遠くにある、その子のための何かに向かう指導でないと意味がない。どうしても若い先生や講師の先生は、このあたりが「遠慮」によってぼやかされてしまっている。僕はここはすごく大切なことだと思っている。
主顧問の立場を最大限に担保しつつ、副顧問の指導を全うする。勝負どころを逃さず、指導をやりきる。こういう姿勢こそ、組織がうまくいくための必要条件であり、良い部活動をしていくための最低条件だと考える。手加減せず関わる。専門どうのこうの、はあくまで生徒の物差し。我々は教育活動を行っている。そこを侵すような言動には、立場うんぬんではなく、本気で向き合うこと。
若い副顧問の先生にはたくさんトライしてほしい。そんなことをとりとめもなく思う次第です。

2017年6月4日日曜日

「一ヶ月前の29点」




今日はFBや学習会でお世話になっている伊東先生の学校とゲーム。かねてからお声をかけていただいていてて、やっと実現した。大阪から神戸に遠征。個人的にとても楽しみにしていた日。朝早くから神戸へ。
ちょっと昔は京都や奈良、尼崎に繰り出してゲームを組んでもらっていたけど、そういう意味ですっかり出不精になり、久々の刺激だった。車ではいつも行き来するところ。まさか生徒を連れてゲームをしに来るとは思いもしなかった。
神戸市内ながら広々としたグランドで、生徒もキビキビ。これは心して立ち向かわないと、と思っていたら、やはり不安は的中。2試合で29失点。久しぶりのゲームではあったものの、こんなに点を取られたのは久しぶりだった。大阪の夏の大会はほぼ一ヶ月後。そこでこんなゲームになり、実にしんどい時間だった。生徒がしんどいときは僕らもしんどい。長い時間だったと思う。
でも、これを甘んじて受け入れて前向きに取り組んでいたのは、ウチのキャプテンだった。体調不良で先週はほぼ1週間欠席。今日も来れるか心配だった。それが、2試合で4安打。しんどい展開だったのに、終始前向きだった。悩める主砲で、雰囲気はあるのになかなか一本が出ていなかった。今日は守りでもずっと周りを鼓舞し、自身のハードラックにも笑顔だった。理想的なリーダーだった。
野球は必ず勝敗がある。でもここに行き着くまでに、アクシデントがあってもここに駆けつけようと尽力したり、外部の活動で忙しいのにきちんと試合には間に合わせたり、といいところもあった。これがないとやってられない。こういう子たちがいるから、負けても前向きに頑張りたいと僕も思える。正直なところ、ずっと苦しい展開だった。でも、課題が浮き彫りになったので、怪我の功名だと思いたい。
帰る前に、ラスト1ヶ月で僕の声がどこまで届くのか不安になる場面があった。大きな声を出せばきっとできる。でもそれでは意味がない。「ああ、やっぱりあれじゃあかんよな」と忖度し、適切な振る舞いをしてくれるのが理想。この時期は感情的な言葉ではなく、本心で訥々と語っていくようにしたい。響かないくても仕方がない。そういうふうに育ててきてしまったのだから。まだ1ヶ月ある時間の中で、あきらめない練習をゲームの中でしっかりとしてほしい。負けるのは簡単。勝ちたいのは相手も同じだから、どうしてもしんどい。これが嫌なら野球なんかしなかったらいい。原因を他人のせいにばかりしているような生徒は、大人になってもそんなふうなことを言うだろう。
この時期にしんどい試合をしてしまったチームはきっとたくさんある。大事なのは指導者がそのチームの一番のファンであること。これで終わってたまるか。
(伊東先生、今日はお気遣いありがとうございました。SNSの良さを実感した一日でした。)
〈結果〉
H29.6.4 ✕神戸市立渚
① 4−9   ✕
② 1ー20    ✕
来週は土日ともゲーム。田辺中と佃中にお世話になります。

2017年6月3日土曜日

「大阪市春季総体」

朝から大会の運営に。南港中央球場で行われた。春は南港、秋は舞洲。大阪市の定番の流れ。僕は生徒とここで野球をしたことがない。市大会4強のみの特権。毎回好ゲームで、バックネット裏で好き勝手言うのがまたおもしろい。
もう専門委員になって10年を過ぎるが、僕より若い先生がどんどん組織を回している。たぶん僕もそういう瞬間があったのだと思うけど、全く貢献できていない。この委員に関わってすぐは大先輩ばかりでやたらと気を遣ってヘトヘトだった。なつかしい。委員が多くなって、春と秋とで半々で運営。もちろん組織のトップの方々はどちらも。こういうみなさんが大阪市の野球を牽引している。ちょうど僕らの世代のちょっと上の先生方が中心。僕はその隅っこにいる。

ここに来ると、野球っていろんな形があるなあとつくづく思う。アップ、声、応援、選手、点のとり方、作戦。バックネットのレギュラーの僕は、ここでいつもワケシリの先生方に教えてもらう。そして考える。ここでプレーした子たちはいつまで野球を続けるのだろう。ケガを押して出場した子もきっといるはず。勝っても負けてもすごく大きな思い出になる。
ここに至るまでの軌跡もこの10年、15年でずいぶん変わった。専門委員の先生方は熱心に指導をされている方ばかり。ある時期から、こういう「熱心な先生方のチーム」が必ずしも勝ち上がっていないことに気がつくようになった。野球は勝負事なので、運や調子次第で勝ったり負けたりする。そんなのわかっている。でも、そういうことじゃなくて、という話。
野球を取り巻く環境で、スパルタとか長時間練習とか、やっと見直されてきている。次は関わり方の時期にきている。休みの価値観も変わってきた。きた、と書いたのは、まだ途上だと思うから。極論を言えば、少なすぎるくらいで本当はいいと思っている。ただ、今日はこういう話ではないので、これについてはここらで措く。
僕の師匠がある時期に「『ここはピッチャーとバッターの勝負やから、ランナーは邪魔すんな』と言うねん」と言っていた。今になって僕はこの言葉にすごく惹かれる。スクイズを仕掛けて失敗したら「打たせたらよかった」、打たせてアウトになったら「小技でいくべきだった」、初球からいったら「待てのサインを出しておけばよかった」などなど。こういう妙味こそ野球のおもしろさ。確かにそう。
わかるんやけど、打ち取られて後悔したらそこをバネにしていく、バネにできる子になってほしい。大会で負けたら元も子もない。わかる。ここの緊張感こそ、生徒にぜひとも体験させたいことなのかも、と考えている。プロならこうはいかないのかもしれない。
どういう引退が彼らにとって幸せなのか。勝ち続ける。そういうチームもきっとある。生徒が後悔しない環境を与えられていないよな、そういう環境のひとつのしての指導者になっていない自分に反省する。今日はスタンドでそんなことを考えていた。どうか、野球が好きな子になってほしい。

高校版 修学旅行に行ってきた

二泊三日の修学旅行を終えた。よかった。誰も損をしない行事になった。 ちょっと昔、修学旅行委員長に推した生徒がいた。引っ込み思案、でも、力がある。彼はやりたそうだったので、僕が推した。八面六臂、気配りや決断力があった。その彼をレクレーション大会のあと、みんなでサプライズで感謝の言葉...