2017年12月25日月曜日

「3年生担任と顧問」

今日は雨上がりのグランドながら、部員といっしょに野球ができた。テニスボールでロングティーをやって、一心にボールをたくさん拾って自分たちが一球でも多く打つ。高校のときにやっていたスタイルを生徒に話すとすぐ乗ってきて、それでやっていた。こういう時間も3年生の担任をやっていると、なかなかとれない。指導につけない、席を外すことが多く、どうしても任せきりの練習になる。
先日、僕のもうひとつのグループでちょっと話題になった「つけないとき、どうするか」ということが、特に3年生の担任になると常につきまとう。免罪符的に週末に練習試合をやって、あれこれ言う。実は大切なのは毎日の練習なのに、プレミア感のある練習である練習試合で生徒をうんぬんしようとする。なんとおこがましいことか。
少しでもグランドへ。部活動のことを投稿しようと思ったとき、指導につけていないことをどうやって隠そうかと「エエカッコ」しようとしたけど、実際はべったりついて指導できることが少ないのでウソを言うのをやめた。それは僕の日常ではない。
3年生の担任になったら、殊更こういう要件でつけそうにない、と丁寧に話している。任せきりのときに練習がうまくいっていなくても、それは生徒のせいではない。顧問がうまくやりくりして生徒についてやればいい。つけない理由を仕事のせいにしない。こんな高尚な理論もあるだろうけど、担任をもった生徒が相談にきたりイレギュラーで懇談をすることになったりと、一生懸命向き合っての結果であれば、僕はもうここにいちいちストレスを感じないでいようと思っている。
これから進路指導が本格化する。関われる時間を丁寧に。ダメなときもそれを呑み込んで。いいときだけいい顔するのじゃなくて、うまくいかないときに上機嫌でいていっしょにやり方やあり方を考える。3年生担任のときの極意だと僕は思っている。

2017年12月3日日曜日

「部活動指導を考える先生Lab.」より

今日は先日作ったFacebookのグループ「部活動指導を考える先生Lab.」に投稿したものを転載します。

今日は合同チームで公式戦初勝利でした。今日の気づき。
勝って、選手の不満を言う。こういう人が多い。僕の場合、選手である場面の不満は過不足あってはならないと思う。良い加減がいい。僕が気にしたいのは、生徒としての姿。今日もたくさん気になることがあった。
集合に遅刻。今日は午前中は学校で取り組みで、登校だったので一時帰宅。思うに、帰って油断したのだろう。
試合後、ミーティングをしているチームがあるのに、余韻からか片付けや着替えが散漫。何のための勝ち試合なのかと思う。
言葉遊びは好きじゃないが、勝っても負けても「価値試合」をしないといけない。負けて学ぶのは当たり前、勝って兜の緒を締める。いたずらに遠慮せよとは言わない。これはマナーやモラルの範囲。勝ったときでないとできない指導がある。選手である姿は日常の生徒の姿に根ざしたもの。それがあるから僕らは部活動をやり続けるのだと思うし、このように学校での部活動の価値を見出そうとするのだと思う。
やりすぎは顧問の自己満足。試合後の「おめでとう!」にどう反応するか。生徒の姿は僕の指導の鏡なのだ。

2017年11月23日木曜日

「『野球部だから』というおごり」

最近、部活動指導について考えるFacebookグループを起ち上げた。人数は少ないものの、かなり深い。コメントを交わすたびに、特に野球部の顧問には「野球たるスポーツに関わる特権」を感じる。野球だからということで知らず知らず自分に縛りをかけて、それが生徒をしんどくしているのかもしれない。このグループの先生たちは自分の指導に絶えず疑いをもっていて、これでいいのかなと思いながら日々過ごしている。その姿に大いに共感する。
先日、ある先生から聞いた。選手起用に関して、保護者がどうも納得いっていない。どうやら、我が子が試合に出られないことが大いに不満であるというような話だった。よく聞く話。
選手起用について、技術の巧拙だけで判断していいのなら実に容易い。肩が強い、足が速い、打撃がいい、守備がうまい。でも、授業がいい加減だったり、学年の先生に迷惑をかけたり、警察にお世話になったり、そういう生徒が試合で活き活きとプレーする。見方によれば、それがその子の長所であり、長い目で見てやる必要がある。でも、学校というところは、そういうことをきちんとやった上で日常があるのだ、という指導をする。学校の部活動は、ややもすれば上手な選手が試合に出られない。下手でも試合で活躍できる。変な世界。ただ、それは学校の部活動の意義と直結していて、そこがウヤムヤになるなら存在意義はないと言っていい。
ここは「野球部だからちゃんと指導しないといけない」ということではない。どの部でもすべき最優先事項のはずだ。ここは我々が是が非でも維持すべきラインであり、ここを侵すような事象は断固、毅然と対処していくべきと考える。
もうちょっと言えば、試合に出してやれないということに忸怩たる思いでその子を見、どうにかして周囲に認められる姿に変容できるように働きかけられないとか悶々とするのが顧問の務めではないだろうか。
一方で、野球部特有の変な風潮もある。プロ野球、高校野球に通じていく指導をすることこそがあるべき姿、指導である。坊主頭、休みなし、浮世離れした珍妙なあいさつ、掛け声。それはそれであっても良い世界だが、多様性が担保されない世界だと勘違いされるとたちまち生徒は苦しくなる。そこへの視野と、理想の姿を行き来できる指導こそ、特に野球部顧問には求められているのではないかと、ここ数日で感じている。
命をかけろとか、腕がちぎれても投げろとか、もうそういうのは退場していただきたい。学校の先生がすべき指導は、人並みの日常を当たり前に過ごさせること。プラスアルファに部活動がある。そういうことをつらつらと考える数日だった。

2017年10月22日日曜日

「自分で考えることができる選手」

ある方の勧めで、これを観た。とても良い番組だった。自分で考えることのできる選手育成について、多く時間が割かれていた。あわせて、人格がすぐれていないと大成しないということも強調されていた。後者は言うまでもないが、中学校という現場、しかも学校の部活動で「自分で考えることができる選手」を育てることとはどういうことかを観ながら考えていた。

番組の中で、履正社のノックを引き合いに自分で考えることの大切さ、自主性の大事さを紹介していた。NHK解説者の小早川氏が「自主的にできるレベルまでもってくるのが難しい」という話をされていた。やり方がわからない、基本的な動作がわからない生徒に「さあやりなさい」と言っても何をすればいいかわからない。中学校の部活動で専門外の部をもった先生はきっとここに悩み、うまくいかなくなっていくのだろう。やがて求心力がなくなり、生徒が顧問を信頼しなくなり、保護者も冷めていく、という図式。実によくわかる。

自分たちで、という言葉はとてもウケが良い。トップダウンではなく、生徒を大切にしているふうに映る。ただ、実際にこれをやりきるのは相当な忍耐力が必要だ。ウチの野球部も先日、これで全体指導した。やるべき練習を「わかってほしいな」と思いつつ、結局それに着手する子がいなかった。その日は練習終わりのミーティングで話した。実はこの時点ですでに僕の指導がまずかったと感じている。気づかせる指導ができていないし、考える素材の提供が乏しかったのだろう。小早川氏の発言が一気にこの指導場面を想起させた。

あふれるほどの素材からそこに行き着かせる。これがどれほど難しいか。これをやりなさい、と言うときもある。でもそれなら言い続けないといけないし、自分で気づくクセがつかない。ここは完全に生徒といっしょに顧問も成長しないとけない点だと思う。そういう意味で練習試合や公式戦というのは恰好の素材。僕はゲーム後の課題設定、提供は生徒といっしょに確認しながらけっこう細かくする。要はそれが日常の練習に反映されていくのかどうか、というのはその生徒の資質や組織の力。ここが目下の課題だ。

特に中学校の部活動はつけないときもある。それを嫌って外のチームにいく生徒もいる。ここは賛否はおいて、現状でよりよい活動にしていくためには自主性をいかに日常的に伸長していくかが大切だ。語弊を恐れず言えば、下手な子には徹底して教えないと技術が備わらない。気づかない子には徹底的に壁にぶち当たらせ、そのショックが必要。それをたえずできる環境づくりとしての、教員の仕事のあり方が求められる。こういう部分を研究者や外の組織といっしょに考えていくといいと思う。

プロフェッショナルの選手育成の場としての部活動もある。ただ、多くのそうではない普通の部活動をもっと生徒のものにしていくのであれば、思い切った考え方の転換が求められる。だからこそ、学校の先生は日常生活の大切さを話していかねばならない。教師としてのプロフェッショナルの指導を部活動で。そんなことを考えた。

2017年10月20日金曜日

「背番号の意味」

今日、背番号を渡した。初めて一桁をもらった生徒もいて、破顔一笑だった。僕も現役のときに、一度だけ一桁をもらったことがある。
中学生の頃、一塁手だった僕は、2年生になって自分たちのチームになったときに3番をもらった。出たり出なかったりだったので、正直複雑な気持ちだった。いま考えても、なぜあのときに一桁をもらえたのかわからない。
裏話がある。二人の顧問の先生の話を僕は聴いていた。
「杉本に3番あげようと思ってるねん」「そうですか、いいですね」「それでゲームには◯◯を出そうかなって」「それ僕も同じこと思っていました」かくして、僕は3番をもらったもののずっとベンチだった。何の意味をもった3番だったのだろう。
背番号が、ある意味の論功行賞の役割をするのはわかる。高校野球でも僕と同じような意味合いで背番号をもらった選手はきっといる。
僕は選手目線の背番号の抜擢をいつも考える。二桁は二次的な要素が絡まることもある。でも、一桁は絶対レギュラーであるべきだ。特に中学生に婉曲な、ドラマ的な要素はおおそよ汲み取ることは難しい。これを選手が無能だとかそんな議論にならないことは聡明な方だとわかる。額面通りの抜擢こそが愛情だと切に思う。選手として2番手、3番手なら、そう抜擢することこそ愛なのではないか。言い切ってもらえることで救われることもあると僕は思う。
一桁は誇り。重みはチームごとに違うかもしれない。でも、そのチームおいての一桁は唯一無二だ。胸を張ってゲームに臨んでほしい。そのチームに応じたサイズのドラマが存在するのだ。

2017年9月30日土曜日

「幽霊部員について」

幽霊部員という言葉は死語かもしれない。いずれ言葉が変わっていくだろう、この幽霊部員だが、どこの学校でも必ずいる。この幽霊部員をめぐってトラブルがたえない。拙著にも提案したが、放置するからトラブルになる。積極的に関わるのが適切な、しかるべき指導だと考える。
たとえば体育大会のクラブ行進や卒業アルバムの撮影などで、気まずそうにしている生徒を見たことはないだろうか。全然部活に行っていないから自分の身の処し方がわからない。もうひとつ言うと、顧問もそれをそのままにしている。待っている、ということになるのかもしれないが、生徒から顧問に歩み寄ってくることはまずありえない。それなのに、放置してしまっているのが誤解のもとであるし、保護者からしたら「同じ学校にいててなぜ声をかけてくれないか」という話になる。ましてや同じ学年だと特にそうなる。
ここで保護者から説明を求められても、言い訳ととられるだけ。僕が新任の頃、保護者への対処が当日なら「説明」、次の日になると「言い訳」となると教わった。言葉遊びかもしれないが、教育は「今日行く」ことだ、という話。この図式にあてはめていくと、長く部活に参加していない生徒に関わらないのは顧問の仕事としては物足りないものだと思う。
僕は野球部で幽霊部員を長い時間かかえた経験がない。僕自身がもやもやするので、そうなりそうならきちんと話し合ってやめさせた。勝手にいなくなった子にも声をかけてお互い気まずい時間を過ごさなくていいようにした。やんちゃな生徒が縛りに耐えられず、部活を続けられないことがある。こういうときもこっちから関わって正式に退部させてきた。もっと若い頃はこのあたりがあいまいで悶々とした時間を過ごしたことがある。僕もそうだったし、生徒もきっと心地悪かったと思う。気持ちよく生徒には登校させてやりたい。
外部のスポーツチームなら幽霊部員は実質存在しえない。対価を払って指導を受ける以上、お金を払っているのに来ない子を放置することはありえないからだ。無償の外部組織であるなら、ひょっとしたらありえる話かもしれないが、指導者が学校関係者であければそれぞれのアプローチになるはずだ。
でもこれが学校の部活動なら大いにありうる。新任の先生や若い先生がこういう生徒を放置してしまうことがあるが、周りや学年の先生が提言して正式に手続きをさせてやらなければならない。いずれ学校への不信感になり、そのひずみはどこかで日々の業務に間違いなく跳ね返ってくる。「こういうときは自分からきちんと話にくるべきだ」というのは顧問の瑕疵。そういうことができる生徒が幽霊部員になるはずがない。何か後ろめたいところがあって部活に足が進まなくなる。保護者が知らないケースもある。こういう動きこそ、学校の部活動ならではの動きだと言える。
こういった、技術指導に行きつくまでの丁寧な指導のあり方がもっと研究されていいと思う。顧問の独自採算にせず、担任業務と同等に学年や学校あげてきちんと取り組んでいくべきだ。現場と研究の密接な連携が望まれる。部活動経営の一要素の事案だと僕は考える。

2017年9月27日水曜日

「個人練習は順調さのバロメータ」

ミスは嫌だ。試合で「また同じミスを」とか「これは準備してなかったな」とか、そういうことを言い出したら野球はどれだけ時間があっても足りない。でも、任せる。
ウチの野球部は現在5人。それでも練習のラストには30分ほどの「個人練習」を課している。自主練ではない。自主練は、やってもやらなくてもいいという読み方もできる。違う。枠は与える。その時間内に何をやってもいいというもの。
今日のラスト。ある子はテニスボールで実践打撃。横でピッチング。向こうで走り込み。僕はバッティングの守備。5人がそれぞれやっている。生徒がやりたいと思う練習が、こっちのやってほしい練習になるのが理想。提案すればきっとやる。でも、なまじ提案はしない。試合のあとに「こういう練習が必要やったな」と、染み込みやすいタイミングで話す。野球ノートにはそのような振り返りの文字が目立つ。で、それが週の練習に反映されていたら◎。でもこれがなかなかうまくいかない。アドバイス直後はやる。でも、週の中、終わりになると結局自分のやりたい練習になってしまう。切実さが忘れられ、ぼんやりと自分のやりたいことにしか目がいかなくなる。こうなると僕は自分の声かけがまだまだだと感じる。
個人練習の様子は、チームの力のバロメータ。うまくいっているときは各々、やるべきことに向き合っている。ある子が言っていた。小学校時代はいろいろ教えてもらったけど、中学は何をするか考えないといけない、と。だからと言って、小学校時代の練習を否定しない。それのおかげで、いまのパフォーマンスがある。理想は、技術が未熟な子にできる子が教えてやっている風景であり、未熟な子が上手い子に質問できるような環境。もっと上積みを望むときは難しいことをどんどん提案し挑戦させる。やってみよかな、と向けるのが僕の仕事。
僕がいないとできない生徒になってほしくない。でも現実はそううまくいかない。それをわかった上で全部任せるときもある。僕は何もしていないように見える。これで力がついていけば。まだまだ途上。人間力とか、命を懸けるとか、否定はしないけど、生徒の日常の文脈に落とし込めているか、指導者は敏感であるのか。勝てば官軍。敵はその考え方。それは学校にはなじまないのです。

高校版 修学旅行に行ってきた

二泊三日の修学旅行を終えた。よかった。誰も損をしない行事になった。 ちょっと昔、修学旅行委員長に推した生徒がいた。引っ込み思案、でも、力がある。彼はやりたそうだったので、僕が推した。八面六臂、気配りや決断力があった。その彼をレクレーション大会のあと、みんなでサプライズで感謝の言葉...