2017年6月6日火曜日

「副顧問論」〜勝負どころはいつか〜

1 専門外で若い
2 専門外でベテラン
3 専門で若い
4 専門でベテラン
新年度になって、副顧問となった先生方にはいろんなパターンがある。4ははっきり言って問題ない。問題はそれ以外。2も問題はないかもしれない。2の場合であれば、ほとんどノータッチ、ということが多い。
副顧問の先生は実に難しい。経験の有無は措いておいて、主顧問と同じようなことをしようとしたり、それを越えようとしたりすると、たちまち生徒から不信を買うことになる。つつましくせよ、というわけではない。その立場相応の関わりを心がけないと組織としてうまく立ち行かない。
特に難しいと感じるのは、ずっと学校にいたけど今年からその部を見るようになったパターン。今までの関係性をイメージして子どもたちは関わってくるのに、教師の側はそれではうまくいかないことが多い。利害が生じない関係は楽やし、楽しい。
仲良し先生は生徒には心地よい。でも、心地よいだけで何も残らない。清涼飲料のようなもので、栄養にならない。ここを一歩踏み込むのか否か、これは目指す教師像による。ただ、実はここが自覚できず、苦しんでいる先生は意外と多いように思う。
本気で向き合おうとしたら、正面衝突する日は必ずある。これを乗り越えないと、生徒と本当に良い人間関係を気づいていくことは不可能だと断言できる。トップダウン式の、いわゆる「オラオラ」ではない。そんなの大人の特権を振りかざしているだけで、僕から言わせたら卑怯なやり方。
許せないことがあれば、場合によっては感情的になってもいい。そうとさえ思う。これが単に勝ち負けに向かうためのそれであれば、僕がここで言いたいこととは違う。もっと遠くにある、その子のための何かに向かう指導でないと意味がない。どうしても若い先生や講師の先生は、このあたりが「遠慮」によってぼやかされてしまっている。僕はここはすごく大切なことだと思っている。
主顧問の立場を最大限に担保しつつ、副顧問の指導を全うする。勝負どころを逃さず、指導をやりきる。こういう姿勢こそ、組織がうまくいくための必要条件であり、良い部活動をしていくための最低条件だと考える。手加減せず関わる。専門どうのこうの、はあくまで生徒の物差し。我々は教育活動を行っている。そこを侵すような言動には、立場うんぬんではなく、本気で向き合うこと。
若い副顧問の先生にはたくさんトライしてほしい。そんなことをとりとめもなく思う次第です。

2017年6月4日日曜日

「一ヶ月前の29点」




今日はFBや学習会でお世話になっている伊東先生の学校とゲーム。かねてからお声をかけていただいていてて、やっと実現した。大阪から神戸に遠征。個人的にとても楽しみにしていた日。朝早くから神戸へ。
ちょっと昔は京都や奈良、尼崎に繰り出してゲームを組んでもらっていたけど、そういう意味ですっかり出不精になり、久々の刺激だった。車ではいつも行き来するところ。まさか生徒を連れてゲームをしに来るとは思いもしなかった。
神戸市内ながら広々としたグランドで、生徒もキビキビ。これは心して立ち向かわないと、と思っていたら、やはり不安は的中。2試合で29失点。久しぶりのゲームではあったものの、こんなに点を取られたのは久しぶりだった。大阪の夏の大会はほぼ一ヶ月後。そこでこんなゲームになり、実にしんどい時間だった。生徒がしんどいときは僕らもしんどい。長い時間だったと思う。
でも、これを甘んじて受け入れて前向きに取り組んでいたのは、ウチのキャプテンだった。体調不良で先週はほぼ1週間欠席。今日も来れるか心配だった。それが、2試合で4安打。しんどい展開だったのに、終始前向きだった。悩める主砲で、雰囲気はあるのになかなか一本が出ていなかった。今日は守りでもずっと周りを鼓舞し、自身のハードラックにも笑顔だった。理想的なリーダーだった。
野球は必ず勝敗がある。でもここに行き着くまでに、アクシデントがあってもここに駆けつけようと尽力したり、外部の活動で忙しいのにきちんと試合には間に合わせたり、といいところもあった。これがないとやってられない。こういう子たちがいるから、負けても前向きに頑張りたいと僕も思える。正直なところ、ずっと苦しい展開だった。でも、課題が浮き彫りになったので、怪我の功名だと思いたい。
帰る前に、ラスト1ヶ月で僕の声がどこまで届くのか不安になる場面があった。大きな声を出せばきっとできる。でもそれでは意味がない。「ああ、やっぱりあれじゃあかんよな」と忖度し、適切な振る舞いをしてくれるのが理想。この時期は感情的な言葉ではなく、本心で訥々と語っていくようにしたい。響かないくても仕方がない。そういうふうに育ててきてしまったのだから。まだ1ヶ月ある時間の中で、あきらめない練習をゲームの中でしっかりとしてほしい。負けるのは簡単。勝ちたいのは相手も同じだから、どうしてもしんどい。これが嫌なら野球なんかしなかったらいい。原因を他人のせいにばかりしているような生徒は、大人になってもそんなふうなことを言うだろう。
この時期にしんどい試合をしてしまったチームはきっとたくさんある。大事なのは指導者がそのチームの一番のファンであること。これで終わってたまるか。
(伊東先生、今日はお気遣いありがとうございました。SNSの良さを実感した一日でした。)
〈結果〉
H29.6.4 ✕神戸市立渚
① 4−9   ✕
② 1ー20    ✕
来週は土日ともゲーム。田辺中と佃中にお世話になります。

2017年6月3日土曜日

「大阪市春季総体」

朝から大会の運営に。南港中央球場で行われた。春は南港、秋は舞洲。大阪市の定番の流れ。僕は生徒とここで野球をしたことがない。市大会4強のみの特権。毎回好ゲームで、バックネット裏で好き勝手言うのがまたおもしろい。
もう専門委員になって10年を過ぎるが、僕より若い先生がどんどん組織を回している。たぶん僕もそういう瞬間があったのだと思うけど、全く貢献できていない。この委員に関わってすぐは大先輩ばかりでやたらと気を遣ってヘトヘトだった。なつかしい。委員が多くなって、春と秋とで半々で運営。もちろん組織のトップの方々はどちらも。こういうみなさんが大阪市の野球を牽引している。ちょうど僕らの世代のちょっと上の先生方が中心。僕はその隅っこにいる。

ここに来ると、野球っていろんな形があるなあとつくづく思う。アップ、声、応援、選手、点のとり方、作戦。バックネットのレギュラーの僕は、ここでいつもワケシリの先生方に教えてもらう。そして考える。ここでプレーした子たちはいつまで野球を続けるのだろう。ケガを押して出場した子もきっといるはず。勝っても負けてもすごく大きな思い出になる。
ここに至るまでの軌跡もこの10年、15年でずいぶん変わった。専門委員の先生方は熱心に指導をされている方ばかり。ある時期から、こういう「熱心な先生方のチーム」が必ずしも勝ち上がっていないことに気がつくようになった。野球は勝負事なので、運や調子次第で勝ったり負けたりする。そんなのわかっている。でも、そういうことじゃなくて、という話。
野球を取り巻く環境で、スパルタとか長時間練習とか、やっと見直されてきている。次は関わり方の時期にきている。休みの価値観も変わってきた。きた、と書いたのは、まだ途上だと思うから。極論を言えば、少なすぎるくらいで本当はいいと思っている。ただ、今日はこういう話ではないので、これについてはここらで措く。
僕の師匠がある時期に「『ここはピッチャーとバッターの勝負やから、ランナーは邪魔すんな』と言うねん」と言っていた。今になって僕はこの言葉にすごく惹かれる。スクイズを仕掛けて失敗したら「打たせたらよかった」、打たせてアウトになったら「小技でいくべきだった」、初球からいったら「待てのサインを出しておけばよかった」などなど。こういう妙味こそ野球のおもしろさ。確かにそう。
わかるんやけど、打ち取られて後悔したらそこをバネにしていく、バネにできる子になってほしい。大会で負けたら元も子もない。わかる。ここの緊張感こそ、生徒にぜひとも体験させたいことなのかも、と考えている。プロならこうはいかないのかもしれない。
どういう引退が彼らにとって幸せなのか。勝ち続ける。そういうチームもきっとある。生徒が後悔しない環境を与えられていないよな、そういう環境のひとつのしての指導者になっていない自分に反省する。今日はスタンドでそんなことを考えていた。どうか、野球が好きな子になってほしい。

2017年5月6日土曜日

「日常の中の野球」か「野球の中の日常か」

しばらくこちらには投稿できていなかった。4月からここまで、自分の指導のあり方について考えさせられることがたくさんあった。忸怩たる思いで。僕は何を教えてきたのだろう。そんな時間。
今年の新入部員は1人で、本当に1人でもありがたいことだと思うようになった。この4月に練習試合でお邪魔した先生方と同じ話題になる。部員不足。部活動の制度疲労が明らかになって、いよいよ学校の部活動が変わっていっている。野球に関しては、ファンが減っているという。ここでは詳述しないが、うなずける事態だ。公園で楽しくやっている野球と習って教わる野球が乖離しすぎていた。これをどうしていくのか、本当に考えている人はどれくらいいるだろう。
僕は学校で、日常の多くの時間を過ごす習慣やクセが野球にも出ると話している。日々の数時間の活動で生徒の行動が良き方向に向くとは思っていない。じゃあたくさん時間を野球でもとってやればいいじゃないか、と言われると僕には僕の考え方があるので自分の枠内で生徒と関わっている。自腹切ってバスをチャーターしたり、勝ち負けで人生が決するような気概で生徒と野球をしたりしていない。(そういう一連の事象を揶揄するわけでなく、ステレオタイプとの比較ということです)
日常と野球はつながっていると本当に思っているし、日常の頑張りが野球だけでなくその子の将来につながっていってくれた嬉しい。一方で、野球の頑張りを日常につなげることをここ最近思うようになった。グランドと教室はつながっている、という話。教室とグランドはつながっている、というのは明らかに教師の目線であり、生徒はそこまで考えてもちろんやっていない。グランドのあり方が日常にも顕れてくるなら、責任持ってグランドでのあり方を指導してやらないといけない。
近年理想的なスタイルとして「指導者は生徒を後方支援する存在である」というようなフレーズがある。確かに一理あるし、古風なスタイルで指導にあたっている関係者なら耳が痛くなる文言だと思う。でも教えてやるべきことを教えないで後方支援はない。それが僕の中できちんとわかっていなかったのだと気づいた。生徒は教師を見ている。だから教室でもグランドでも、大切だと思うことを発信し続けて、エラーがあったら焼き直してやって、次のチャレンジを待って、というのを繰り返していく。反省の多い、もはや反省というか後悔じみた1ヶ月だった。言い続けてくることを怠ればうまくいくものもいかないし、いかなくて当然。
野球が日常のどの部分を占めるのか、生徒によって個人差がある。野球は自分の人生を豊かにする一つのパーツであり、全てではない。優先順位を間違えないように、改めて話していくことの大切さを感じた時間だった。
たくさんお問い合わせいただいた「野球部の教科書」。今年もわけあって配布していない。中身の抜本的な見直しを終えるまでたぶん生徒には渡せないと考えている。惰性で配るのならやらないほうがマシ。より内容を自分の日常の一部に溶け込ませられるものにして生徒に提示したい。その折にはみなさんにまたご批正いただきたいと思いますので、よろしくお願いします。またぼちぼちと更新してきたいと思います。
(結果)
4.15 ✕ 喜連
① 5−1 ◯ ② 6−5 ◯
4.22 ✕ 大正北
① 1−3 ● ② 6−5 ◯
4.29 ✕ 友渕
① 2−4 ● ② 6−6 △
5. 3  ✕ 鯰江
① 2−0 ◯ ② 2−2 △
5. 4  ✕ 平野
① 12−1◯ ② 9−8 ◯ 
(5連休は2日間活動、3日間オフです。ウチはいつもこんなペースでやっています)

2017年4月8日土曜日

「プレースタイル」(指導者の「語り」について)

ここ最近、練習の様子が冴えなかった。大会が早々に終わり、会議などで春休みながらオフが多かったこともある。目に余ったので、生徒にいろんな話をしている。生徒の声も聴いた。こういう時間を最近とってこなかったことに今さら気づく。技術的なことだけに偏重しがちだった最近の声かけが、良くなかったのかもしれない。そうじゃない。技術的なことはピラミッドの頂点。どれだけ日常のあれこれに根ざした活動なのかで上に載っかるものの大きさが変わる。頂点を支えるベースが揺らいでいたのだと思う。
こんな話をした。ある高校の監督さんの話。評判を聞いてある生徒の様子を見学に行ったときのこと。その子は確かに力はある。でも、一人だけ様子が違う。明らかに他の子と違う態度で練習している。しかもそれが集団からも指導者からも許されている。許されているというより、誰からも注意されていない。それを良いことに、自分本位で練習をしていたとのこと。力がある子かもしれないけど、その子から全く興味がなくなったとお話しされていた。ややもすると指導者批判のように聞こえるが、僕は違うと思う。こういう子を適切に指導してやるのが指導者だろうし、許してはいけないということが徹底されているのが良い集団。こういう子がいくら有名校で鳴り物入りで入ったところでたかだか知れている。そして「監督と合わなかった」「先輩とケンカした」とこれみよがしに自分の不当さを棚上げして野球部をやめる。
こんな話もした。ある中学校が抜群の強さを誇り、ほとんど負けなしで快進撃を続けていた。最後は負けてしまったけど、何事にも一生懸命取り組む生徒たちを学校の仲間も先生たちも応援した。それを見て、外野球の子たちが羨ましがったそうだ。
いわく「俺らがどれだけ頑張っても応援してもらえない」と。そんなことはないけど、全校生徒の前で表彰され、それを誇りにもっと励み、みんなから応援される一方で、自分がどれだけ大会で頑張って成績を残しても思うようにならない。これは仕方がないことでもある。でも、これは野球部と外野球のいろんな面を体現している話だと思う。生徒たちには、自分たちを誇れるような活動にしていかなければいけないと話した。僕のええカッコではない。応援されて頑張らない子はいない。そういう姿に今は程遠いという話。
今日の野球ノートに自分の「思い過ごしだった」「勘違いだった」と書いている子がいた。あとはそれを行動に移せるか。そこは僕が生徒に適宜声をかけて確認していけばいい。僕も忙しいという理由を作ってきちんと野球の勉強をしていない。育ってほしいようには育たない。育てたように育つのだ。そうある先生に教えてもらった。生徒への「語り」は指導者の一番の仕事。そのために書くし、読むし、悩むのだと思う。最近は語る時間をとっていなかった。大いに反省した数日だった。
今日は雨で練習試合が中止。明日は審判業務があるのでオフにした。狭いとか人数が少ないとか、忙しいとか時間がないとか。みんな一生懸命言い訳を作る。この姿勢を僕は悪いとは思わない。ストイックにいられる人はそれでいい。僕はそういうのともどううまく向き合っていけばいいか、と考える。腹を決めるとか、覚悟とか。もっと違った言葉がないものか。次の版の「野球部の教科書」にはそういう自分の感覚を謳いたい。応援してもらえるプレースタイル。みんな性格が違うなかでどうやって…、と思う。

2017年4月7日金曜日

「野球部の教科書」という方法

新年度を迎えて、転勤したある先生からLINEがきた。「先生、野球部の教科書を送ってもらえませんか」。親しいその先生が今年転勤し、骨のある子たちと向き合っていくことになるとのこと。そこで、僕の教科書を使いたいと思ったらしい。すぐにデータを送った。とてもうれしい話。
このグループのメンバーのみなさんにはおなじみの「野球部の教科書」が活躍できる時期が来た。顧問がいつも言いがちなフレーズに価値付けをした小冊子。部活動編成時に生徒に配布している。去年はわけあって配らなかったが、毎年これを指針にして部活動をしている。拙著でも触れたが、口で言うだけではなかなか考えていることは浸透しないし、何より顧問が「なぜそういうことを生徒に言うのか」ということを考える機会がない。その反省を反映させた僕の指導バイブル。
たとえばこんなふうに綴っている。
(引用開始)
「大きな声であいさつをしよう」
(なぜ?)
 野球というスポーツは体格や体力などの身体的な能力と、瞬間の判断や相手の動きを予測するなどの頭脳的な能力が必要です。
 しかし、それらには限界があります。実は他にも我々に備わっている武器 があります。「声」です。野球は声でプレーをコントロールできるスポーツ です。大きな声があれば、先の2つの能力をカバーできる可能性があります。
 しかし、これもきたえないと自分の思い通りにはなりません。ファインプ レーやホームランは難しくても、ボールを呼び続けることはできます。不安 なときに、「大丈夫や!」と声を出せるとリラックスできるかもしれません。
 あいさつは、その「声」をきたえるとても良いチャンスです。小さな声で あいさつをしていては、せっかく良いことをしているのに相手には伝わりま せん。野球は大きな球場で自分の考えや相手に指示を伝えないといけません。
 大きな声で良いことをする。これを一生懸命できるだけで、連続ホームラ ンより価値のある働きができると信じてください。声も、出す練習をしない と大きくなりません。ある日突然できるようになる、ということはないので す。恥ずかしがらず、大きな声を出しましょう。
(引用終わり)
項目ごとに「なぜ?」と問い立てをして、それに答えていく。これを繰り返していくなかで「この先生はこういうふうなことを言いたいのか。」と生徒に伝える。生徒だけでなく保護者にも伝える。こういう役割を担うのが「野球部の教科書」。いずれこれを増補して、ちゃんとまとめて発信したい。これも自分の考えを伝える1つの方法だと思う。
* もし興味のある方はご連絡ください。

2017年4月2日日曜日

「投球制限について」


今日は市大会ベスト16に残っているチームと対戦。左の好投手と一回り大きくなったメンバーに完敗でした。
今日はエースが所用で欠席。こういうこともある。今日いるメンバーでやりくりした。あれこれしているうちに、5回でかなりの投球数になった。登板した子は「まだいけます」と言ったけど、僕はすぐにスイッチした。ここで使い減りしてしまうことが今日の目的ではない。いつも投げている子も、今日はゲームに入る前からコンディションに不安があったので登板回避。2試合目は初登板の子に。こういうときにいろんなチャレンジをさせたい。

Twitterに投稿した投球制限の所感。今回のセンバツの様子からの私見。
1 高校野球の投球制限。僕は賛成だけど、投手の技術的な成長の妨げにならないか、という意見があるらしい。タイブレークしかり。根性主義、自己犠牲を美化する風潮の最たるものだと思う。
2 投球制限について、僕は違うことを考える。プロと同じような運用で制限をしたとして、選手の絶対数が必要になる。ベンチ入りの数をもっと増やす必要が出てくる。出ないと、ゲームが成立するための投げる子がいないという事態も出てくる。
3 そのためにはストライクボールを投げるための指導がより必要になり、技術的な指導が試合の行方を左右することになる。いまもそうだけど、より、だ。
4 勝利至上主義でいくとどうしても選手の出場機会が偏ってくる。大胆な選手起用もジュニアの指導者には必須の感覚になる。勝てなくても選手の負担過多を防ぐ感覚。当たり前なはずなのに、勝ちたいときはこういうバランス感覚がおかしくなる。
5 そんなんしたら勝てないだろうが!って、ジュニアのスポーツがそこまでのものなのかという疑問もある。今日はもうええよ、という声が子どもの本当の成長につながる。投げたいなら、ゲームメイクの妙にもっと思いを馳せるべきだ。
6 でも小中の指導者がそんなことまで求められるとすれば、もっともっと野球離れは加速する。部活動の顧問の先生にそんなことを求められては、未経験先生には負担でしかない。
7 ベンチ入りの数を増やす?もとより、昨今は部員が減っている。どうやったら野球をやりたくなるだろうか。失敗がつきもののスポーツなのに指導者の怒声や叱責であふれるグランドでは、子どもが楽しいはずがない。
8 たかが野球。されど野球。されどのドラマに、極度に美化される風潮が拍車をかける。野球離れをまじめに考えていく話であると、投球制限の話題から思う次第です。
ジュニア期で大切なのは勝ち負けより育成。でも勝ち負けの世界も僕はあっていいと思う。指導者の方針にしっかり納得して取り組めていればそれでいい。プロの世界のあれこれをそのまま流用するのはちょっと違う。ジュニアはジュニアの課題があって、それに真正面から取り組むのは様子を知る大人。外野にわかったことを言われたままではいけない。当事者でしかわからないこともある。でもやはり、外からわかることもあるのはわかる。両者に敬意がなければ議論は進まない。最近このあたりが揺るがせになっている。とても気になる。これもいつか書きたい。

投球制限は野球のあり方に関わる大きなトピック。もっと活発に議論されてもいい。子どもを壊す指導だけはやってはならない、という共通点はゆるがない。と、思いたい。
(結果)
H29.4.2 対 市岡
① 1−6 ✕
② 3−2 ◯
良いチームでした。来週の本選も頑張ってください。

高校版 修学旅行に行ってきた

二泊三日の修学旅行を終えた。よかった。誰も損をしない行事になった。 ちょっと昔、修学旅行委員長に推した生徒がいた。引っ込み思案、でも、力がある。彼はやりたそうだったので、僕が推した。八面六臂、気配りや決断力があった。その彼をレクレーション大会のあと、みんなでサプライズで感謝の言葉...