2021年10月21日木曜日

中学校と高校、同じ生徒だけど

 今日は中高の生徒の違いについて。語弊を恐れず言えば「こんなに放っておいていいんや」というのが率直な感想。放っておくというか、今までが僕はかまいすぎてたのだな、とつくづく感じる。

給食、部活の引率、行事の取り組みなど、中学校の先生はいかに前面に出て生徒に指示していたのかを自覚することが多くなった。その前面に出るのがある意味でいう「おもしろさ」かもしれない。小学校はもっとかも。憶測が交じるが、教師が自分のやりたいようにでき、ややもすると自分の代わりになってそれをする。そんなことも可能だ。

そういう文脈で言っていくと、高校は本当にそばにいるだけ。勉強をやりなさい、こうしなさい。頭では絶対にわかっている。しないのはしたくないからだ。中学校も高校も同じ。同じだけど、高校のほうがより強固(頑固?)だ。言っただけですぐにやるなら自分でやっている。そういう話になる。

だとすれば、高校生は何を教師に求めているのだろう。それがいまの最大の関心事。当然、勉強を教えるのは言うまでもない。中学校とは比にならないくらいに量も多し、難しい。科目数も増え、さばくのもひと苦労の質量。そんな子たちが教師に求めるものは。大人なんて、というメガネはすでに持っている。そんな子たちに。これは仮説だけど、大人が話すにあたり、「何に心を傾けたか」「熱くなったか」「どんなことで悔しい思いをしたか」を求めているように思う。伝え方は難しい。言い古されてきた表現や無味乾燥なものでは受け付けないだろうから。

中学校ではこういう大人の話は中3になってようやくできたように思う。いや、別に1年生にやってもいい。でも、伝わり方が違うし、言葉も選ばないといけない。大人までの距離、時間が遠すぎてイメージすることがままならない。中1のときにした話を3年でも話す。僕はよくこれをやってきた。こういう時間は教師にとってはとてもいい時間で、いわばデザートのような、教師の仕事の真骨頂とも言える。(授業でもう伝わっている、というのは言われなくてもわかっています)

高校ではそれがデザートとしではなく、サーブの仕方で、求められている。時期が来たら食いつくような話はすでに経験済み。自分そのもので向き合っていかないと見向きもされない。すごい環境だ。一人の「人」として向き合うことに尽きる。

今は勉強をしっかり教えてほしい。困ったとき、わからないことがあったときは呼ぶから、それまではそっとしておいてほしい。たまに手伝うくらいでいいから。そんなふうに見える。心配性のおせっかいな先生もいれば、年相応に接している先生もいる。それは中も高も同じ。結局は「その人」だ。

僕が見ているのはまだ数ヶ月だけだし、他の学校はもちろん知らない。かまわなくていい気楽さと、かまわなくていい寂しさが共存している。あと何年かしたら青いなあ、と思うことを書いてみた。こういうのは今しか感じられないので鮮度のいいうちに。

今日は出張だった。学校の前のテニスコートに授業で行っているクラスの男の子たちがいた。一瞥して、あ、と思ってもう一度見て手を振った。ぺこりと頭を下げる子、同じように手を振り返してくれる子。高校には高校のおもしろさと、生徒のかわいさがあるなと思ったので、こんな文を綴ってみました。

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