3年生の選択の授業で手話の授業をやってきた。まとめの位置づけで、僕が担当した。(ペアでやっている授業です)
前任校では聴覚支援学校と近かったご縁もあって、1年生が毎年交流行事をやっていた。当時のエピソードや写真を交えながら、聴覚障害者について自分が知っている話をした。6回も授業をやれば興味をこえた感情を抱く。「おもしろい」のあとの感情。大事なのはここからだと思う。
最後に大阪市で起きた、生野特別支援学校の生徒の事故について話した。ポジティブな話のあとに「我々はそういう社会を生きているのだ」と、しっかり考えてもらうために。事故で我が子を失った両親が民事で起こした訴訟。その内容が看過できないものであった。
事故で亡くなったのは小学5年の井出安優香(あゆか)さん(当時11)。彼女は重機にひかれてしまい、尊い命を失った。両親は民事で運転手と雇い主の会社を訴えた。刑事罰はすでに確定しているので民事の争いになる。両親の訴えに対し、被告側の主張は「健聴者に比べて聴覚障害者は生涯で稼げる賃金は少ない」というもの。いわく「健聴者の40%」だと。両親は我が子を失った悲しみに加え、我が子の尊厳も踏みにじられたと感じ、両者の溝は深まるばかりという。
手話を少し学び、聴覚障害者のことを「わかった」という思い過ごし。「助けてあげたい」という気持ちは大切だが、当事者は我々が思う以上のものを感じながら日々が常で、そういう日々を生きている。
この授業はボランティアについて学ぶ授業。ボランティア、という言葉も実に危うい。「やってあげている」という気持ち。献身的な自分をメタ的に評価する自分。いったいそれは誰のためなのか。
わかっている人ほど語れない。僕はこれを事あるごとに言っているのだけれど、「あなたのことはわからない」というところからしか始まらないもの。
まだ判決が出ていないこの裁判の推移を僕は注視したい。学ぶこと、理解しようとすることはわからないことと出会い続けることだ。これに嫌気がさしたらそれまで。簡単なことだが自分に直接関係ないと思うことは見続けられないものだ。
中学校の道徳の授業で生徒の心を揺さぶろうと、躍起になった時期があった。心を揺さぶろうというのはおこがましく、圧倒的な事実でしかそれはなしえない。わかった人ほど語れなくなる現実こそ、本当の日常だと僕は思います。
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