2021年10月27日水曜日

ノート点検は必要か


高校生に授業をするようになり、ノート点検の意味を考えるようになった。中学校では1年生のノートはまだまだ整理できていない。日を追うごと、年を経るごとに自分で整理できるようになり、だんだんと見返せるようになっていったものだ。しかし、高校生。

僕が用意した板書の「レプリカ」を見て、これは評価になるのだろうか。プリントはロイロノートで提出。貼っているかどうかなんて、学力をつけるというところから見たらまったく本質からズレたことだ。ノート点検しませんよ、というとノートを取らない生徒も出てくるだろう。そういうのも個人的にはあってもいいんじゃないかな、とさえ思う。

じゃあ点さえ取れたらいいのか。極論、そういうことになってしまうかもしれないが、論点は「板書が反映されたノート」を僕がチェックすることに何の意味があるのだろう、ということ。オリジナリティのあるノートもある。それはあくまでその生徒の学習の跡であって、見てもらうために「映える」ノートを作るようでは意味がない。

見直して、見返して学習になる。もちろん、授業を受けているときにノートを作ることで思考が言語化され、フレーム化され、自身の考えていることがまとまっていく。

じゃあ古典では? やはりノウハウめいたものを網羅したノートになりがち。果たして考える時間が授業のうちにどれくらいあるだろう。生徒を指名する意味も。考えを共有する、とかいうが、高校生にどこまでそういうことが必要なのだろう。いらないとは言わない。どこまでか、ということ。

学習に向かう以外の力学が働いている。生徒の頭がヘトヘトになる授業がしたい。ノートはあってもなくてもいい。授業をちゃんと受けるためのお作法のためのノートであれば、双方にとってよろしくない。ノート点検、いるんかねえ。

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